■□12月の法話■□


●無事是れ貴人

 今年も後一ヶ月で終わりになります。大掃除や新年の準備で追われて、どことなく心がそわそわしてきています。
 今年を振り返ってみれば、これと言ったこともなく、淡々と過ぎた感じがしています。逆に何を今年はしたのかと思ってしまいます。それでもトータルで思えば、無事であったということでしょう。みなさんはいかがだったでしょうか。
 ところで、この「無事」という言葉ですが、普通には、変わりがないこと、健康であること、平穏であることなどに使っていると思います。しかし、禅の世界では、違う意味があります。
 中国臨済宗の開祖・臨済義玄(?〜八六六)の言葉を、弟子の慧然が記録した『臨済録』という書物の中に次のような言葉があります。
 「無事是れ貴人(きにん)、但だ造作すること莫(なか)れ、祗(た)だ是れ平常なり」
 禅では無事は、仏や道、救いを、つまり本当の幸せや安らぎを外や他に求めない心の有り様を言うのです。臨済の言葉で言えば、「求心歇(や)む処、即ち無事」と言われるように、外に向かって求める心がなくなったところを、「無事」と言うのです。  人間は生れながらにして、仏性(純真な人間性)をもっています。しかし、わたしたちはそれを忘れて、外に向かって、仏や道や真理、本当の幸せや安らぎを求めてウロウロし、あくせくしています。
 例えば、テレビでおいしいと紹介されたケーキがあれば、それを買いにお菓子屋まで行き、長蛇の列ができてしまいます。タレントが健康にいいと言えば、その野菜を買いに行き、スーパーではその野菜が品切れになると言います。また最近では、「冬のソナタ」で一躍人気になったヨン様がいいと言えば、わざわざ韓国まで行ってしまいます。その姿を見るにつけ、それらをすることによって、心の中にある「なにか物足りないもの」をわたしたちは無意識に満たそうとしているように思えてくるのです。つまりは、なにかを求めることによって、本当は幸せを求めていると言えるのではないでしょうか。
 しかし、臨済からすれば、このように外に求める限り、本当の幸せも安らぎもないと、「無事是れ貴人」という言葉によってわたしたちの行動を戒めているように思います。「無事是れ貴人」とは、何ものをも求めず、あるがままの人間本来の姿に徹したままの人こそ、貴い存在であるという意味です。わたしたちの足元にはすでに、安らぎも幸せもあるのです。それが本当にわかり、外に求める必要がないと実感できたところが無事なのです。
 ものへの執着にふり回されているわたしたちには本来の意味で、無事に過ごすことは、なかなかむずかしいかもしれません。しかし、本当に安らいで、幸せに日々を生きるには、立ち止まって、外に向かって物を求めすぎないことが必要かもしれません。
 と言うことで、本日の夕食は冷蔵庫にあるもので、「鍋料理」に。


■□11月の法話■□


●災難を逃れる妙法

 今年は台風が何度も日本に上陸し、また地震もおきたりして大きな被害が出ています。特に新潟では余震が何度もあり、これでは避難所から自宅に帰ることも出来ない状態になっています。被災された皆さんは、今も恐怖と不安とで毎日を過ごされているのではないでしょうか。
 私も阪神淡路大震災の時は、大阪の北部にある豊中にいたのですが、本棚から本が落ちたり、食器棚から食器が飛び散ったりしたあの地震の恐怖は忘れることは出来ません。ただ、余震が今回ほど続かなかったので、短期間で日常生活に戻れたことを思い出してしまいました。
 ところで、江戸時代の終わり頃に生きた良寛和尚は皆さんご存じと思います。禅僧(曹洞宗)なのですが、どことなく親しみを感じさせる人です。小さな庵に居を構え、托鉢によって日々の糧を得、坐禅をし、和歌や漢詩を作り、子供たちと遊ぶ生活は、どこか現代に生きている私たちにとっては憧れてしまいます。
 その良寛さんが越後にいたときに三条を中心に地震が起こりました。今から180年ほど前のことです。結構大きな地震だったようです。その時、良寛さんと親交のあった俳人が江戸に出ていましたが、良寛の安否を気遣い、手紙をよこすのです。良寛さんはその返事として、自分の無事を謝し、被災者の多いのに心を痛めている旨を述べ、そしてその後に、

 「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候、死ぬ時節には、死ぬるがよく候。これは災難をのがるる妙法にて候」

 と書いています。
 あのやさしいイメージの良寛さんがどうしてこうも厳しい言葉を言われたのか皆さんは不思議に思われないでしょうか。
 考えてみれば、私たちは災難や不幸に逢うと、じたばたとして、もがき苦しみます。しかし、今回の地震もそうですが、起こってしまったことはどうしようもありません。じたばたしてもどうにもならないのです。それでも、私たちはなおかつじたばたし、先を考え始め、心配になり、不安な日々を送ってしまいます。
 しかし良寛さんは、災難や不幸のなかであれこれ思いわずらうな、と言っているのではないでしょうか。災難を災難として受け止め、それにこだわらずに生きることが「災難に処する道」と言われているように思われます。
 私は、「死ぬる時節には、死ぬるがよく候」という表現に、事実を事実として認めさせてくれる禅僧としての良寛さんのあたたかい心を感じてしまいます。そこに本当のやさしさがあるかもしれません。
 被災された方は今大変な生活をされていることでしょう。それでも、日々の生活はあります。良寛さんの言葉をお念仏として称えながら、よけいなことは考えないで、今自分ができるこをしていくことが必要ではないでしょうか。このことは私たちにも生きるヒントを与えてくれるようです。


■□10月の法話■□


●とらわれのない心

 大リーグのイチロー選手がすばらしい記録を作りました。84年の間破られることがなかったジョージ・シスラーの記録(年間最多安打記録)を更新し、262安打という前人未踏の記録を樹立したことです。
 イチロー選手の体はアメリカの選手と比べると、大きくはありません。にもかかわらず、どんなボールが来ても打つことができるように見えるのです。それには彼のいろいろな面での努力があったことが想像されます。例えば、体の調整、技術への努力などです。それらのことがあって、しなやかなバット捌きができ、すばらしい記録が生まれたと思います。
 ここで、イチロー選手のバット捌きを見て、思い出すことがあります。それは、将軍家の剣の指南番としての柳生宗矩が絶対に負けることのできない試合に臨むに際して、その心構えを訊ねたのに対して、沢庵和尚が答えたものに『不動智神妙録』という本があります。
 その中で、千手観音に手が千本あるのは何を教える姿なのかと尋ねるところがあります。沢庵はそれに答えて次のように言います。
 それは、一つの手に心を留めたら999本の手はみんな役に立たなくなります。千手観音はどの手にも心を留めないから、千本の手がみんな役に立つことを人々に示そうとして作られ姿であって、そのことを得心した人はすなわち千手観音にほかならない、と教えられます。そして、「向こうへも、右へも、左へも、四方八方へ心は動きたきよう動きながら、そっとも止まらぬを不動智と申し候」と言っています。
 この言葉はイチロー選手のバット捌きと共通点を感じさせてくれる気がします。
 イチロー選手はどんなボールがきてもそれをヒットにする技術を持っています。普通の選手であれば、ボールが来るコースあるいはボールの種類を予測して、打席に立つのではないかと思います。調子が良ければ、うまくバットにボールがあたり、ヒット。そうでなければ、アウトです。しかし、イチロー選手は違います。どんなボールがきても、しなやかに打ち返すことが出来るのです。それはいろいろなことが考えられますが、イチロー選手が言っている、「僕の配給に対する意識は30%ほどです。あとの70%は、どんなコースや球種であっても、ボールという物体を捕らえることだけに集中しています。」という言葉を思うと、投げられるボールの予測にとらわれていないということと思われます。まさに千手観音です。
 勝負ということになれば、私たちは非常に緊張してしまいます。多分、イチロー選手にもそれはあることでしょう。ただ、イチロー選手はその緊張を集中力に換え、ボールと向き合っているいるから、どんなボールであろうと打ち返すことができるのでしょう。
 私たちがイチロー選手のようになることはほぼできないかもしれません。ただ、投げられるボールが苦しみや悲しみのボールと考えれば、それを打ち返すことはできます。それには「とらわれのない心」を養う訓練が必要かもしれませんね。


■□9月の法話■□


●誰もが通る道

 人間は知らないうちに歳をとるもので、私も今年で五〇歳になりました。
 世間では五〇歳と言えば、多分それ相応の地位があり、収入もあり、子供も大きくなっていることだと思います。それに比べ、当方はないないづくし。それでも、おかげさまでなんとか生きさせて頂いています。
 人間は老若男女を問わず、どこかに自己を主張したいという気持ちがあります。ただ、段々歳をとり、経験を積んでくると、あまり自己主張をすると世間が嫌がるのがわかってきます。そこで、微調整をしながら、わたしたちは生きています。要は、他人がどう評価しているかをいつも気にかけて生きているのです。
 ところが、歳をかさねて、ある時点になると、この事に変化がおきてきます。世間はすべて若者が大事、年寄りなんか目も向けてくれない。老人はいやがられているのだとひがみ出します。
 この老人の事実をはっきり言ったのが、洒脱な絵を描いた仙涯義梵という禅僧です。「老人六歌仙」(出光美術館蔵)という絵には次のような言葉が書かれています。

「しわがよる。ホクロができる。腰まがる。頭がぼける。ひげ白くなる。手はふるえ、足はよろめく。歯はぬける。耳は聞こえず、目はうすくなる。身にそうは、ずきん襟まき杖めがね。しびん孫の手。聞きたがる。死にともながる。淋しがる。出しゃばりたがる。世話やきたがる。気短になる。グチになる。心がひがむ。欲深くなる。またしても同じ話に子をほめる。達者自慢に、人は嫌がる」

 まさに、老人の状態が明確に詠われています。
 仏教では、比べることを嫌います。それは正確な判断ではなく、他人と自分を比較し、自分が優れているとか、他人が劣っているとか思い、心が騒いでしまうからです。それが仏教ではよくないと言うのです。
 では、どうすればいいのでしょう。それは他人と比べるなということです。とは言っても、どこか比べる気持ちを持っているわたしたちには比べないことは難しいはずです。
 仙涯さんはそれに対してすばらしいヒントを言ってくれています。事実を事実として見なさいと、この「老人六歌仙」では言っているように思います。つまり、仙涯さんの言葉は今ある状態は今しかないのだから、すべて肯定すべきだ。そうすれば、こんな愚痴ぽい生き方はしなくてすむだろうと言われているように受け取れます。
 わたしたちみんなは順当に生きれば「老人六歌仙」の状態がやってきます。誰もが通らなくては行けない道なのです。時はすぐ経ていきます。ただ、そのときに、老いたら老いた時の楽しい生き方ができるよう、今から訓練しておくことが必要なのではないでしょうか。


■□8月の法話■□


●縁起(えんぎ)

「忙しいのに、待たせるなんて」
 とものすごい剣幕で怒ってしまいます。
 しかし、自分が遅れた場合は、逆に「大事なことがあって」と、さも重要なことで遅れたような言い訳をすらりと、言ってすましています。
 このようなことは、皆さんの前にも多々あることと思います。
 そう思うと、世間には二種類の人間がいるように思えてきます。一つは、自分がどんなまずいことをしても、自分の非を認めようとしない人間、もう一つは、どんなことをしても、すべて自分がいたらなっかったからだと自分を振り返る人間の二つのパターンがあることに気づきます。そして、前者は傲慢な生き方になり、後者は卑屈な生き方になってくるように思われます。
 多分、この法話を読まれているみなさんは後者に属する人ではないかと思います。そして、こころの中では、「どうして私だけが、こんな目に遭わないといけないの」と思われているのではないでしょうか。
 仏教では「縁起」という言葉をよく使います。みなさんは縁起と言えば、夜に爪を切ると縁起が悪いとかというように、縁起をかついだ言葉を知っているはずです。しかし、仏教の縁起の意味は違っています。意味は、この世のすべてのことは、すべての他のものによって生じていることなのです。簡単に言えば、相互依存関係です。
 わたしたちは、完全な人間ではありません。だから、いつも大なり小なり、他人に迷惑をかけています。いや、かけずにはおれないのです。それを他の人たちに赦してもらって生かされています。
 批判される人も、批判する人も、本来はともに凡夫です。凡夫と言う言葉は、悟りを開いた人ではなく普通の人、平凡な人を意味します。それぞれに原因があります。一人だけに原因があるとは仏教では見ないのです。
 だからこそ、他人に赦してもらって生かされているわたしたちは、他人から受ける迷惑を当然なことだとして生きなくてはいけないと仏教では言うのです。
 生きていれば色々な迷惑なことが生じてきます。兄弟がいるのに、自分だけが寝たっきりになった両親の面倒をみなくてはいけないことになるかもしれません。そんな時に、「なんで」と言ってみてもいしようがありません。
 わたしたちが、どうこう言ってもどうにもならないことは、それをそのまま受け入れるしかないです。そして、「これも人間の老いの姿を学べる」と考えれば、今自分がやっていることに対して、幸せを見つけたことになると思います。
 イヤなことに思わず、その中に楽しいことを見つけ出して楽しく人生をお送りましょう。


■□7月の法話■□


●円窓(えんそう)

 法蔵禅寺には円窓があります。白い壁を丸くくり抜き、格子状になっている建具を開閉するだけのものです。丸い世界からは、雨に濡れた庭の木々や苔、それに紅葉の古木が見えてきます。
 この円窓がどういう訳か、CMに使われるというのです。これといった魅力が法蔵禅寺の円窓にあるとは思えないからです。
 しかし、よく考えてみれば、法蔵禅寺に来られる方は、異口同音に「良い窓だ」と言われます。それは、多分、「円」と言うものの不思議な魅力ではないかと思えてきます
 禅ではよく一円相を描きます。特に、お葬式の時などには、引導(人を導いて仏道に入よう促すことや、そこから死者を済度すること)を渡すときに、払子(長い毛を束ねて柄をつけたもの。もとは、ハエを払うもの)をもって、中空に円を描いたりします。
 円はもともと丸く、欠けたところがないということから、仏教では、真如・仏性・実相・法性・空と言われる、絶対の真理・悟りを表したものとされます。ただ、その真理は、姿、形を持っていません。また言葉でも表せません。なぜなら、この真理を言葉で表現すれば、真理から遠ざかってしまうと考えるからです。
 しかし、もしこれを表すとするなら、円を描くのが一番よいとなったのでしょう。仏典の『円覚経』では、絶対の真理・悟りを「円覚」と言い、『仏地経』では「大円鏡智」と言って、「円」に円満無欠なものという意味を持たせているからです。
 わたしたちは生きていますと何かと壁にぶつかります。特に若いときは生意気ざかり。あっちにはつっかかり、こちいにもつっかりと、壁にぶち当たってきました。そこで、有頂点なった鼻を折られ、苦労して、現在の自分があるように思います。角張った考えが、やっと少し円くなったような気がします。
 ところで、蘇東披の詩に次の言葉があります。
 無一物中無盡蔵(無一物中無尽蔵・・むいちもつちゅうむじんぞう)
 有花有月有樓臺(花有り月有り楼台有り)
 無一物というのは、何もないということではなく、何者にも囚われることがないということです。そして、煩悩や執著を離れたこころで物事を見れば、すべてがありのままに見え、花も月も楼台も、すべてが自分なのだということを、この詩は意味しています。
 法蔵禅寺は世間の騒音から離れた場所にあります。今、聞こえてくるのは、蝉の鳴き声くらい。だから、一見つまらないように見える円窓でも、人を惹きつけるように思えます。
 たかが丸にすぎないと円窓。かと言って、円を描くことは難しいことです。じっと丸を見つめると、自分の中の気持ちが変化するように、円窓の風景は変化していきます。
 そういう意味で、円窓は見飽きることがないような無限の窓に思えてきます。


■□6月の法話■□


●至道無難(しどうぶなん)

 わたしたちは何事かを始めるに当たって、ためらいが生じます。
 たとえば、私は自動車の免許を持っていません。欲しいとは思わなかったのです。ところが、私より少し年上の近所の方が50歳を越えてから、自動車免許を取られたのです。私と同じように原動機付自転車の免許しか持っておられなかったのですが、「和尚さん、雨の日にはやはり車の方がいいですよ。和尚さんも取った方がいいですよ」と言われるのです。
 確かに、雨の日に出て行くのは、イヤなものです。それでも、京都は道が狭い上に、一方通行が多い。どう考えても、原付自転車の方がスムーズに走れるのです。まして、運動神経がない人間にとっては自動車の運転なんて考えただけでぞっとしてしまいます。それに、税金とか維持費が大変。
 このように、あれやこれやと考えると、自動車の免許なんてと思ってしまうのです。そこで、「やっぱり、自動車の免許はね・・・・。」と答えてしまいます。
 これは、現在それほど必要がないのでいいのですが、必要がある事柄だとこうはいきません。
 すこし前の時代のこと。コンピューターが急速に普及してきたとき、多くの歳を取った会社員は苦労したと聞きました。アナログ人間だったのに、急にコンピューターを使わなくてはいけない状況になって、どうしようもない気持ちになったことでしょう。
 コンピューターと聞いただけで、難しいそうだ、何がなんだかわからいなという気持ちがあるものですから、メールでもワープロでも若い社員に任せてしまいます。しかし、これを繰り返していると、若い社員から馬鹿にされているように思えて、ひっそりと本屋に立ち寄り、コンピューターの本を買い求めて、勉強を始めます。本を読み始めるのですが、言葉がちんぷんかんぷん。やはり、わからないと匙を投げてしまいます。
 そこで、若い社員に聞く。それでも、分からない。
 こんな方が多かったと思います。
 要は、「難しい」と言う思いに負けてしまっているのです。
 禅の言葉はわたしたちの迷いや悩みに、ヒントを与えてくれます。趙州とういお坊さん言葉で、「至道無難」(しどうぶなん)と言う言葉があります。「至道」の「至」は至極・最高の意。無常の大道、つまり仏の道を言いますから、「至道無難」は、究極の真理(悟り)は何もむずかしいことではないという意味です。
 わたしたちのような駄目な人間には悟りなんて所詮無理だという思いあります。それが駄目なのです。
 ためらわず、何事もぶつかっていけば、悟りでも、コンピューターでも分かってくるということではなでしょうか。


■□5月の法話■□


●無常について

 今、当寺の庭は若葉で色鮮やかに染まっています。風も何とも言えない、すがすがしい風が吹いてきます。
 暇な時間があるときなどには庭の草取りをしますが、そんな時、風が吹いて葉が揺れる音を聞いたり、若葉をふと眺めると、心が和んできます。
 多分、このような風景を目にしながら交わされたと思われる話が、昔の中国にあります。
 ある時、弟子が大龍和尚に、「色身は敗壊す、如何なるか是れ堅固法身」(私たちの肉体というものは、いずれ焼かれて骨となり、埋められて土となります。そして、ついには跡形もなくなってしまいます。それでは、永遠不変というような真理はないのでしょうか)と問います。
 あたり一面、花が咲き、青葉で新緑に染まった山を見ながら、大龍は答えます。
「山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し」(山に咲いた花は錦を織ったようだ、谷間に湛えられた水は藍のようだ)と。
 この大龍の答えは、ただ聞くと、春の景色をただ言っただけに思えてきます。実はそうではないのです。山に咲く花は美しいものです。しかし、萎れ散っていきます。またば鴨川の流れも川岸のところに行くと、流れていないように見えたりします。しかし、実際は流れています。この世にあるもので、移り変わらないものはないということです。
 大龍の答えの意味は、移り変わること、すなわち「無常」がどの世でも変わらない真理だということを表しているのです。「無常」は、すべてのものは移り変る存在で、永遠に変らないコンスタントのものは一つもないという真理です。
 わたしたちも老い、病気になり、そして死んでいくことも「無常」です。また赤ちゃんが這い、立つようになるのも「無常」です。花もつぼみがふくらみ、花が開くのも「無常」なら、満開になり、凋み、散っていくことも「無常」なのです。しかし、この「無常」を私たちのこととしては考えません。
 以前よく読まれた絵本に『葉っぱのフレディ』というのがありました。作者はアメリカの哲学者、レオ・バスカーリアという人です。
 木の枝に生まれた一枚の葉っぱフレディが主人公で、この人生を物語ったものでした。内容は、夏には多の葉っぱと一緒に多くの人々の為に緑陰を作り、葉っぱとして生まれたことを誇りに思うのです。が、秋になると、自分がこの世からやがて去っていかなくてはならないとわかると、悩み、苦しみます。結局は、この世は変化し続けるということを悟り、死も変化することなのだとわかって、安心するといったものでした。
 現在、仕事に追われているサラリーマンの方、あるいはわたしたちには、この絵本は、「何をたわいもないことを言っているんだ。そんなことより、現実の仕事や生活が大変なんだ。そんなたわいもない絵本で感動するなんて・・・」と多分言われてしまいそうな感じがします。  しかし、人生最後になって「無常」と思ってもしょうがありません。この世を去っていく人の姿を見つめ、そこからわたしたち自身の生き方を見つめ直すことが、大切ではないでしょうか。
 ただ、「無常」を悲観的に捉えないでください。今という一瞬を大切に生きる「無常」観と考えて頂きたいものです。フレディーのように。


■□4月の法話■□


●一日不作一日不食

 法蔵禅寺はやっと桜が七分咲き位になりました。京都の町中に比べて、すこし遅いのです。
 この季節になると、イヤなことがあります。今まで生えていなかった雑草が急に生長し始めることです。暖かい日、それに雨が降ると、緑の雑草が生えてくるのです。
 何もせずにボケーとしたいところですが、禅寺はそうはいかない気がします。これは、唐の時代の有名な禅僧百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の言葉が禅宗の世界にいる人々とってはどこか頭の隅にあるからだと思います。それは「一日作さざれば一日食らわず」(一日不作一日不食)という言葉です。
 ここで、百丈の言葉が出てきたお話をしてみます。
 百丈が八十歳の時です。この高歳になっても百丈は日々の作務をしていました。弟子たちは見かねて師匠に、「作務をやめてください」と申し入れるます。
 それでも百丈はそれを聞き入れなかつたので、弟子たちは、作務ができないように、作務に必要な道具を隠してしまいます。そうなると、百丈は作務をしようにもできない。仕方なく作務を休止したのですが、その日、百丈は食事をとらなかったのです。
 次の日も、その次の日も。それが三日も続いたので、弟子たちは師匠に、「なぜ食事を召し上がらないのか」と尋ねたのです。
 そのときに百丈が答えた言葉が、「一日作さざれば一日食らわず」であったのです。
 そこで、弟子たちは師匠に非を詫びて道具を返しました。すると百丈はすぐに作務に出かけ、いつものように食事をしたということです。
 「一日作さざれば一日食らわず」という言葉は字面だけ読めば、「働かざる者食うべからず」と思われるかもしれませんが、そうではないのです。
 禅宗には「作務」と呼ばれるものがあります。作務は「作業勤務」を約した言葉で、労働を意味します。皆さんが知っている作務衣は要は作業着なのです。ただし、作務は労働といっても、生活のためのものではありません。労働を通して、その生活が、そのまま仏法を行ずるように心がけることが大切なのです。
 掃除、草取り、水まきとお寺にいるといろいろな作務があります。皆さんから思えば、雑用の仕事かもしれませんが、百丈に言わせれば雑用ではないのです。
 つまり禅宗においては、雑用と思えても、すべての作務が禅なのです。そう信じて作務をしなければならないというのが、禅の考え方ということです。
 もっと言えば、食べることも、寝ることも、休むことも、なにからなにまで禅でないことはないのです。
 とかく禅と言えば、日常生活から離れた崇高なものというイメージを皆さんはもたれているかもしれませんが、百丈に言わせれば、生活がそのまま禅だと言うことです。このことを弟子たち、そしてわたしたちに教えたかったのではないでしょうか。
 わたしたちもさまざまな「雑用」をしなければならないことがります。しかし、それを「雑用」と考えずに、自分の修行つまり「作務」と考えるようにしたらいいのではないでしょうか。


■□3月の法話■□


●諸行無常

 この前まで元気だった人が急に亡くなった、あるいは交通事故で急に亡くなったなどという知らせを受けると、ふと、わたしたちは「無常だなあ」とつぶやいたりします。
 平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という言葉が思い出されるのも、こんな時かもしれません。
 本来、「諸行無常」という言葉は、仏教の言葉です。インドの昔の言葉では、「無常」は「永遠でないもの」を指し、「諸行無常」は「すべての物事はすべて変化し、一つとして変わらないものはない」という意味です。
 つまり、人間を含め、すべてのものは刻々に変化してやまないということです。人間が赤ちゃんから成長することも、病気になることも、老いることも、亡くなることも、すべて無常なのです。
 しかし、わたしたちは自分以外のことには認めても、自分のこととしてはなかなか考えようとはしません。だから、今日しなければならなたことでも、明日があると思ってしようとはしません。

 そのことを相田みつをさんの「そのうち」という詩は語っています。
 そのうち お金がたまったら
 そのうち 家でも建てたら
 そのうち 子どもから手が放れた
 そのうち 時間ゆとりができたら
  そのうち ・・・・・・
  そのうち ・・・・・・
  そのうち ・・・・・・と
 できない理由を
 くりかえしているうちに
 結局は 何もやらなかった
 空しい人生に幕がおりて
 頭の上に 淋しい墓標が立つ
 そのうち そのうち
 日が暮れる
 いま きた この道
 かえれない

 まさに、この詩はわたしたちの今の姿を言っているのではないでしょうか。死を見つめようとしない、わたしたちは「そのうち」という便利な言葉を使い、「結局は何もやらなかった空しい人生に幕がおりて」、死んでしまうのです。
 ところで、死刑囚は、あと幾日もない残された命を考えて、残されたこの世での寿命をいかに有意義に使うかに実に真剣であるといわれます。
 これは、まさに仏教者と同じです。仏教者は無常から考えていきます。すべての物事は無常だということは、わたしたちの生命には限りがあるということです。だからこそ、今ある生命は大切にしなくてはいけない、と考えます。また、すべては刻々と変化するから、一瞬が大切だとするのです。
 死刑囚は、執行されるまで、時間に限りがあります。もう幾日、あと何時間しかない生命ときまれば、それほど真剣になるのです。
 わたしたちも、本当は死刑囚と同じなのです。ただ、違いは執行日がわからないだけです。そう考えれば、帰ってこない一瞬一瞬を死刑囚のように緊迫感をもって、平生の一瞬一瞬を真摯に生きるべきではないでしょうか。


■□2月の法話■□


●安心立命

 先月の終わりに、大リーグのイチロー選手と松井秀喜選手の対談をテレビで放映していました。天下の大リーガーの話だけに、楽しく聞いていたのですが、その中でイチロー選手が話したスランプの話はすばらしい話でした。

 「苦しい時は力が半分しか出せない。100パーセント出せないと感じることがある。50パーセントの100パーセントを出そうとする自分がいれば立ち直りは早いと信じている。50パーセントしか出せないからと言って、50パーセントしか出さないような姿勢だと、それがずっと長くなる。(略)壁と言うのは、越えられる可能性のある人にしかやってこないと思うから、逆にチャンスだと思っている」

 いま落ち込んだり、悩んだり、苦しんだりしている人たちには、とてもいい言葉ではないでしょうか。
 ところで、『阿弥陀経』という仏教経典には、阿弥陀仏のおられる極楽世界の景色が描かれています。
 極楽世界には七宝の池があり、池の中に車輪の大きさのはすの花が咲いています。そして、青色のはすの花は青い光を、黄色のものは黄色い光を、赤い蓮華は赤い光を、白い蓮華は白い光を放っていて、なんともいえずすばらしく、香りがいいという風景です。
 これを読むと、たいていの人は「あたりまえ」ではないか、と言われるかもしれません。青いはすの花が青い光を放つのは、まさにあたりまえなのです。なんの不思議もありません。青い花は青い光を、赤い花は赤い光を放つのです。
 この話のそれぞれの花を次のように考えたら、話はわかりやすいでしょう。青色の花は調子のいいとき、黄色の花は少し悪いとき、赤色の花はもう少し悪いとき、白色の花は非常に調子のよくないとき、と考えたどうでしょうか。そうすると、もしわたしたちが白い花だったら、なんとかして調子を戻し、青色の花になって青色の光を出したいと考えるのではないでしょうか。イチロー選手の話ではないですが、50パーセントの調子のときは、調子が悪いので、50パーセントしか出せない。常に青色の光つまり調子のいいときと比べて、落ち込んでしまい、力を出そうとしないのです。
 もともと仏教においては、生・老・病・死を「苦」と捉えています。「苦」というのは、自分の思い通りにならないこと。思い通りにならないものを、なんとかして自分の思い通りにしようとするところから「苦」が生ずるのです。だから、仏教では、思い通りにならないものを、思い通りにならないことだと諦めることをと教えているのです。調子も同じです。いくらいつも調子よくと思っても、そうはならない。どうすることもできないものです。だから、そのときは諦めて、そのときなりに精一杯生きていくことだと思います。
 イチロー選手の言葉は、与えられたその時、その時を精一杯に生きなさいと教えてくれます。まさに、その言葉は『阿弥陀経』の「青色青光」のことばはと同じ意味ではないでしょうか。


■□1月の法話■□


●安心立命

 新年明けましておめでとうございます。
 本年も昨年同様、よろしくお願い申し上げます。
 昨年も大きな事件がありました。イラク戦争はその最たるものではないでしょうか。平和な解決ができればと祈るばかりです。
 ところで、年頭の言葉として、「安心立命」という言葉について考えてみたいと思います。
 現代のような人間社会の中で生きている、わたしたちが一番望んでいるは何でしょうか。多分、大きな意味で言えば、生活の安定ということだと思います。しかし、現実は不安材料が一杯です。年金問題、病気、戦争など。考えればいくらでもあります。生きるということは、不安の中にいることに外ならないのではないでしょうか。そこで、安心を欲しがるのが人情だと思います。
 ただ、不安だからといって、不安の中にいつもいるということはしんどい話です。かと言って、
常に安心な状態を期待するというのも無理な話です。
 では、どうすればいいのでしょうか。禅の話には多くのヒントがあります。昔の中国の話ですが、雲門というお坊さんがが弟子たちに尋ねました。
 「今、竜が万物を呑みつくそうとして襲ってきたら、お前たちはどのようにして安心立命するか」。安心とは「悟る」ことであり、「立命」とは天の与えた使命をまっとうすることなので、「悟りつつ使命をまっとうするには、どうすればいいか」と尋ねたのです。
「竜」は、さまざまなものを象徴していると考えられます。たとえば、現在問題になっているイラクの戦争、あの阪神大震災のような天変地異、あるいは老、病、死の苦しみなど。これらはいずれにしても、戦って勝てるはずのない相手、逃げても逃げおおせない巨大なものです。この問題はわたしたちが今、直面している問題とも言えます。
 その竜がきたとき、自分は竜に対してどう対応したらいいのかだけ考えていては、とうてい解答は得られないのです。それは自分と他者を対立させた考えだからです。
 しかし、禅は別の見方を教えてくれます。禅は物事を「一即多、多即一」と考えます。つまり、自分に対して万物があるのではなく、自分は同時に万物、万物は同時に自分だということを言います。
 だとすれば、竜に呑まれるの呑まれないのとジタバタせず、「同化」すればいいということです。たとえば、病気になったら病気を受けいれれば、右往左往はなくなります。それが「安心立命」ということなのです。

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