■□12月の法話■□
●人間(じんかん)万事塞翁が馬
年末になって姉歯建築士の構造設計の偽造が告発されて、大きな問題が生じています。普通であれば震度6以上でも耐えられる構造であるべきマンションやホテルのはずが、建築費のコストダウンのために、柱の鉄骨が少なくされ、震度5の地震でも崩壊するとのことです。マンションを買った方たちは、ローンを抱え、別の所にも引っ越しが出来ない状態にあります。政府も地方自治体もこの問題で苦慮しているようです。大変な事態だとしかいいようがない気持ちです。ただ、マンションに住んでいる方々にはなんとか早く落ち着ける場所ができればと思っています。
ところで、中国古典の『准南子』に、「塞翁が馬」というお話しがあります。
昔、中国の北方の塞に住む老人(塞翁)の馬がある日胡の国に逃げてしまいました。
村に住む人たちが見舞いにゆくと、老人は、
「なに、これはいいことかもしれんよ」
といって、少しも気にする様子がないのです。
しばらくすると逃げた牡馬が一匹の牝馬を連れて帰って来ました。
今度は、周囲の人々が、
「よかったですね」
と言葉を述べました。すると、その老人は、
「いや、わるいことがなければいいが」
といって、浮かぬ顔をしていたのです。
両馬の間にはりっぱな仔馬が生まれました。老人の息子はそれを育てあげたのですが、ある日落馬して脚を折ってしまいました。
近所の人が見舞うと老人は、
「なに、これはいいことかもしれないよ」
といって笑って答えたのです。
時が経って、胡の国が攻めて来ました。若者は戦争に駆り出され、多くの者は戦死しました。だが、老人の息子は脚を折っていたため無事だったのです。
こういう話から「人間(じんかん)万事塞翁が馬」ということわざができたのです。人間は世間という意味です。
このおじいさんの見方はすばらしいものがあります。例えば、私たちはこのことわざを「苦は楽の種、楽は苦の種」と考えて、いまは苦しいことはいずれ楽しいことになるよ、いまは楽しいことはいずれ苦しいことがある、と解釈しがちです。すると今を我慢しなければなりません。しかし、このおじいさんは違うのです。私たちが考える、「いいこと」や「悪いこと」を信用していないのです。いいことだということの中に悪いことがあり、悪いことの中にもいいことがあることを知っていたのです。まさに、物には物差しはついていない、という「空」の見方であり、これが仏教の見方・考え方です。
どうこう言っても始まらない問題は私たちにもあります。そんな時は、「人間万事塞翁が馬」と言う言葉を思い出して、せめて気持ちだけで悠然としていたいと思います。
■□11月の法話■□
●新婦驢(ろ)に騎れば阿家(あこ)牽く
最近、用事があってJRを利用する機会が多くありました。
こんな時には、なるべくスムーズに目的地に行くために、コンピューターを使っています。到着時間から、どの列車に乗ればいいかを教えてくれるからです。乗り換えは何分かかり、次の電車に乗れば、きちんと目的地に時間どおりに到着します。
ところがです。京都駅での乗り換えは嵯峨野線のためにホームが一番端にあります。そこから乗り換えるには、急がねばならないのです。列車のドアーが開くと、急ぐのですが、多くの人たちは悠然と歩いていきます。老人もいますから、歩きが遅い。やっと階段。ここは昇りと下りが区別されていないのです。友達どうしで話しながら昇られると、階段を塞いでしまいます。下りる人は関係なし下りてきます。ついついこんな時は腹立たしくなって、「どちらかに寄ってくれればいいのに」と思いながら、すり抜けるように階段を昇っていきます。それで、やっと乗り換えの電車に乗ることができるのです。
「どちらかに寄ってくれればいいのに」とは、急ぐ人にとっては思うことでしょう。冷静に考えても、これは正しい考えのはずです。しかし、ここにはルールを作って、守ることがいいことと思う意識があります。そして勝手に腹を立てて、何も考えずに歩く人を非難して、気分を悪くしているのです。
禅の教えは固定的に物事を見てはいけないと言います。人間は本来自由なのだと教えます。そこで、今回も禅の言葉からヒントをもらいましょう。
「新婦驢(ろ)に騎れば阿家(あこ)牽く」という言葉があります。この言葉は、中国宋代の首山という禅僧がいました。一人の修行僧が首山のところに来て、「仏とは何ですか」と質問します。つまり、「仏の定義」を尋ねたのです。
そこで首山は「嫁が馬に乗って姑が牽く」と答えました。お嫁さんが馬にのって、お姑さんが馬の手綱を持つということです。今の話で言えば、社長が新幹線の普通車に乗り、社員がグリーン車の個室に乗るようなものです。
常識から考えると、この話は逆ではないかと思われるでしょう。そこで、私たちは「私は社員ですから、グリーン車なんて乗れません。どうか代わってください」というのではないでしょうか。これは私たちが常識に囚われているからです。
首山はこんな私たちに、「そんな常識に囚われていたら、自由にのびのびと生きることはできないよ」と言っているのです。疲れたら、お嫁さんが馬に乗ってお姑さんが手綱を牽いてもいいし、逆でもいいのです。
馬に乗った嫁も手綱を牽く姑も、常識に囚われたり、世間体を気にしたり、お互いに気がねなどしていません。それは、何ものに囚われていないし、こだわっていないからです。首山はこれを無心といい、仏だと言っているのです。
この首山の話を、「おかしい」と思ったら、いかに私たちが常識や固定概念に囚われているかが、わかるのではないでしょうか。
■□10月の法話■□
●果報は寝て待て
私の好きな諺に、「果報は寝て待て」というものがあります。
意味としては『広辞苑』によると、「幸運は人力ではどうすることもできないから、あせらないで静かに時機の来るのを待て」とあります。
特に「果報」という言葉の意味は、同じく『広辞苑』には、「@因果応報。前世の報い。Aめぐりあわせのよいこと」とあり、元は仏教語なのです。
仏教の教えには、「因果応報」の考え方があります。それは、過去になした善悪の行為(因)に応じて現在の幸せや不幸せ(果)があり、現在の善悪の行為(因)によって幸せや不幸せ(果)があるとするものです。この法則は普通であれば悪い結果だけにあると思われますが、善い結果にもあるのです。
ところで、わたしたちが生きていると因果応報の法則とは違う現実に遇うことが多いのではないでしょうか。例えば、悪人は悪い行為によって当然苦しんでいるはずなのに、逆に悪人がのさばり、好き勝手を行っていたりします。反対に善い行いをしても、なかなか果報がえられないということもあります。
こうなると、因果応報の考え方にたいして疑問を持たざる得なくなってしまいます。 ここで、お釈迦様の登場です。お釈迦様の言葉を集めた『法句経』には次のような言葉があります。
「悪が熟さぬあいだは、たとえ悪人といえども安楽を経験する。だが、悪が熟せば、悪人はもろもろの悪を経験する」
「善が熟さぬあいだは、たとえ善人といえども苦を経験する。だが、善が熟せば、善人はもろもろの安楽を経験する」
と。
ここで重要な言葉は、「熟す」というものです。結果はすぐには現れない。時間が経てばその果報は現れると言われていることです。
果報というものは、すぐに結果があらわれることもあるし、それが熟してあらわれるものがあるということです。わたしたちが何かよい行い(例えば、他人に親切にするとか)をしても、時に悪い結果を招くときがあります。しかし、しばらくすると善い結果になることもあるのです。また逆もあります。つまり、最終的には仏様によって収まる世界に収まっていくということではないでしょうか。
すぐに結果を求めてしまうような、今の時代の考えからすれば、「果報は寝て待て」という諺は、なにをのんきな考えと思われるかもしれません。また、逆になにもしないことの勧めのように受け取られるかもしれません。けれども、この諺は物事に誠実に向き合い、結果のみを求めるのではなく、長い目で物事を見る大切さを教えてくれているようです。
■□9月の法話■□
●あきらめよ
毎月の末になるとこのホームページの原稿のことがあって、私にとっては頭が痛い日が続きます。妻に言わせると、普段手が空いたときに、書いておけばと言われるのですが、それがなかなかそうはいかないのです。何を書こうか、右往左往の状態です。
もっと普段から準備をし、考えていればいいのですが、テーマが決まらず、迷いに迷ってしまうのです。
こんなことは皆さんにもあることではないでしょうか。
ある会社の社長さんの話ですが、その会社の今後の命運を左右する大きな契約がありました。その契約をすれば会社は大きな発展を遂げるが、間違うと、会社が駄目になってしまうようなものでした。何日も「どうするのがベストか」と悩みに悩み、最後には血尿がでるまでになって、始めて決心がつき、契約が出来たということです。
わたしたちは常に、「ああなればいい」とか、「こうなってほしい」とかを思います。いや、思いすぎます。情報は集めれば集まる時代です。より一層、この思いは強くなるはずです。
しかし、この思いが迷いを生じさせます。迷えば迷うほど、決断は下せなくなるのです。
私の場合も、しかりです。あまりにも情報がありすぎるので、テーマが絞り込んでいけないのです。
では、わたしたちはどうすればいいのでしょうか。
仏教の教えは、「あきらめよ」と言っても、過言ではないでしょう。ただ、現代のわたしたちがこの言葉を聞くと、「断念する」と受け取ってしまうでしょう。ここで、『古語辞典』をめくると、次の意味があると書いてあります。
@(心の)曇りを無くさせる。
A明瞭にこまかい所までよく見る。
B(理にしたがって)はっきり認識する。判別する。
C事の筋、事情を明瞭に知らせる。弁明する。
D片をつける。処理する。
E断念する。
最後にはじめて「断念する」が出てくのです。@からDまでは、「あきらかにする」であり、Eが「諦める」ということです。つまり、仏教の教えの「あきらめよ」は、真実を明らかにしなさいというということを教えているのです。
わたしたちの迷いの原因は、わたしたちのあきらめのなさに起因します。そこで、迷ったら、思い切って、あきらめ、決断してしまうことかもしれませんね。
次回からは、なんでもいから決断して、私は早めに原稿を書くようにするようにしなければいけませんね。
■□8月の法話■□
●すべては禅
今年の夏も暑い日が続いています。それを喜ぶかのように蝉が大合唱をしています。しかし、こちらは暑さでぐったり。お盆の準備として庭や樹木の手入れをしていきたいのですが、日中は野外では何も出来ない状態です。そこで、日中は室内でできることをと考えるのですが、室内も暑い状態。しょうがなく、本でも読もうとするのですが、1〜2ページ読むと、睡魔に襲われてしまいます。
これではいけないと思うとき、中国の禅僧永嘉玄覚の言葉を思い出します。それは「行も亦(また)禅、坐も亦禅」という言葉です。
禅の修行というのは、静かな修行道場で坐禅をすることだけと一般的に思われているのではないでしょうか。永嘉禅師は、そうではないと言われます。
禅の修行は、各地に師匠をもとめたり、静かな禅堂で坐禅をし、托鉢をすると見えるのですが、実際は歩くこと、行動すること、人と話すこと、黙ること、休憩することなど、日常のすべてが禅なのだということです。
例えば、禅宗には特に「作務」と呼ばれるものがあります。作業勤務の約語ですが、農耕作業や掃除など肉体労働を指します。表面から見れば、皆さんと一緒の生きるための単なる作業としか見えません。しかし、作務は、「仏の作業」をすることによって仏法を行ずることを意味します。禅宗においては、作務そのものが禅なのです。
禅においては、食うために働くのでもなく、働くために食うのでもないのです。食うために働くと考えるのは社会主義でしょうが、禅においては食うことそのことが禅であり、働く(作務)そのことが禅なのです。いや、すべてのこと、つまり寝ることも禅であれば、休息することも禅なのです。生活全体が禅なのです。
言い換えると、どんなことでも行うということが、仏法を行うように心がけることが大切なのです。
わたしたちは仕事に「やりがいがある」とか「つまらない」とかの判断をします。やりがいがあると思えばそれなりに努力をしますが、そうでない場合はなげやりに物事を行います。しかし、禅から言えば、その考えは違うとなります。
禅から見れば、仕事にいい・悪いはないのです。すべて自分の仕事なのです。
あまりにも暑いので、今から少し昼寝をします。そして、涼しくなって、庭の草取りをさせていただきます。いい悪いではなく、これもすべて「禅」を行ずると心がける気持ちで。
■□7月の法話■□
●焼かれた、焼いた、焼けた
このところ花田家の問題が取りざたされています。若乃花、貴乃花と呼ばれる兄弟横綱が始めて誕生し、相撲の人気が盛り上がった時代がありました。その二人が、お父さんの二子山が亡くなったことがきっかけで、相続問題が浮上してきました。現役の相撲の親方である弟はここぞとばかり、今までのいきさつ、兄弟の不仲、そして財産のことについてマスコミに話し、兄はプライベートなことなので沈黙を守っていました。三十五日の法要、納骨の際にも二人の中の悪さがマスコミに取り上げられていました。ところが、急に沈黙を守っていた兄が「相続放棄」をしたとの発表。すべてはこれで解決かと思ったのですが、弟は肩すかしをくらった気持ちなのかまだ納得ができないようなコメントを出していました。 この相続という問題は、若貴だけの問題ではありません。つまり、財産が多い、少ないに関係がないように思えます。現に、そんなに財産があるように思えない人でも、争いが生じているからです。 これは有名な浄土真宗の学者安田理深のお話です。 ある時、隣家からのもらい火で、この先生のお宅が全焼してしまいました。先生は学者ですから、本は長年集めていたことだろうし、論文も研究ノートも沢山あったはずです。それらが一瞬にして灰燼に帰してしまったのです。先生は、呆然とされたと言います。正気に戻ると、急にむらむらとして隣家の人を怨んだそうです。 そこで、先生は隣家からの出火だから、隣の人に自分の大切なものを、「焼かれた」と考えたのです。 しかし、先生は仏教学者。仏教の教えでは、怨んでは物事は解決しないと気づきます。そこで、これでは仏教を学んだ意味がないと思い、先生は隣家の人を赦してあげようと、自分で「焼いた」と考えようとしたのです。 しかし、これは無理。つまり事実と違うので、そんなことは思えません。 しばらく、もやもやとしていたのですが、先生は気づきます。 自分の家は、「焼かれた」のでも、「焼いた」のでもなく、あれはただ、「焼けた」と考えるようにしたのです。そう考えると、事実を事実まま、すなおに受け入れることができるということがわかり、安心できたということです。 今回の若貴の問題にしても、財産は初めから無いと思えばいいのです。事実、ここまで自分たちを育ててくれただけでもありがたいことではないでしょうか。このことを思えば、財産なんてどうでもいいことなので、二人は譲り合っていくはずです。結果、すばらしい兄弟関係が生まれてくると思います。 若貴問題はこだわりなく考えることが如何に必要か教えてもらったようです。
■□6月の法話■□
●地獄と極楽
わたしたちは地獄、極楽の世界と言えば、どこか遠くにあるかのように思っています。子供のころには「嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれる」とよく言われたものです。しかし、大きくなるにつれ、そんなことは気にも留めなくなってきています。
では、地獄はないのでしょうか。
江戸時代に臨済宗(禅宗)の僧侶で白隠禅師という方がいます。江戸時代中期の禅僧で、「臨済宗中興の祖」と言われる方です。
ある日、一人の武士が白隠さんのところに来て、
「和尚様、本当に地獄や極楽という世界があるのですか」
と尋ねました。
白隠さんは、この問いには一切答えず、この武士をからかってしまいます。
「あんたは武士だろう。武士であれば死を恐れることはないはず。それなのに地獄、極楽を尋ねるのは、あんたが死を怖がっているからではないか。しょうもない、武士のう」 武士はこの言葉を聞いていると、だんだん腹がたってきます。堪忍袋の緒が切れたのです。
「何を言う。白隠様は大変偉いお坊様かもしれません。しかし、今の言葉は何ですか。無礼ではないですか」
それを言うや、武士は刀を抜き、白隠さんに斬りかかります。白隠さんはそれをおもむろに除けると。
「そこが、地獄よ」
と言います。
この武士ははたと気づきます。
「白隠様、よくわかりました。無礼をお許し下さい」
と威儀を正して、言います。
「そこが極楽よ」
と白隠さんは笑いながら言ったという話です。
この話で、白隠さんは地獄、極楽という世界が「いま、ここ」にあると言われたのだと思います。
いままで何気なく話していた人が、急に怒り出すことがあります。何が原因かは分からないので、こちらはどうしていいか分からない。すると、またこのことが相手にとって癪に触るのか、また怒り心頭の状態になります。これが、まさに地獄にいるということです。
本当はわたしたちが相手と仲良く、幸せに生きていければ、その時は極楽にいるのです。しかし、なかなかそうはいきません。
現在起こっている事件をみると、人が人を騙す事件がいかに多いか気づきます。多分、騙されたくないという気持ちを過剰に持つと、逆に騙されてしまうようです。その気持ちはまさに地獄の心です。自分で作り出した地獄に自分から落ちているのが現在のわたしたちの状態ではないでしょうか。
今は、相手を底抜けに信じる気持ちが必要かもしれませんね。
■□5月の法話■□
●執著
世の中にはいろいろな性格の人がいます。気が長い人、短気な人、優柔不断な人、・・・・といろいろです。
世の中はいろいろな人がいるから楽しいのですが、時として害が及ぶ場合があります。それは多分、短気な人の場合ではないでしょうか。何かあるとすぐに怒り出してしまい、その怒りは回りに及んで、そばにいる人は気分が悪くなってきます。正直と言えば言えないこともないのですが、怒りがネチネチと後を引くと大変です。
ま、何か原因があると思いますが、多分、怒る本人のある琴線に触れるからなのでしょう。
ここで禅の世界では珍しい女性と禅僧の話をしてみましょう。
ある禅僧が三人の弟子を連れて旅をしていました。ちょうど、大きな川にさしかかった時に、美しい女性がいました。
その時、川は大雨のために増水し、女性は川を渡ろうにも難儀していたのです。女性は、これ幸いと禅僧に声をかけました。
「申し訳ありませんが、向こう岸まで私を渡して頂けないでしょうか」
「いいですよ」
と、禅僧は承知して、なんのためらいもなく、女性をおんぶして、さっさと川を渡っていきました。
向こう岸に渡って、女性と別れた禅僧の一向は、道を黙々と歩いていました。
すると突然、一人の弟子が禅僧に言うのです。
「師匠、どうして女性を抱いたりしたのですか」
それにつられて、弟子たちが禅僧に言い出します。
「日頃の師匠の言われていたこと、あれは矛盾しています」
「あんな見苦しいことはやめてください!」
おそらく、川を渡ってからそれまで、彼らは心の中でいろいろと思っていたのでしょう。それが堰を切ったごとく、ことばが飛び出てきたのです。
それを聞いて、禅僧は大声で笑い出した。
「なんだ、おまえたちはまだ女を抱いていたのか。わしはとっくの昔に、女を降ろしてきたぞ」と。
三人の弟子は、「女を抱く」ということに、ずっとこだわっていたのです。それに対して、この禅僧は、いつまでもこだわるな、執着するなと弟子たちに教えているのです。
私たちの回りにはいろいろな性格の人がいます。特に短気の人が及ぼす害は大変です。それでも、それに囚われていたら、弟子と同じ。そんなことは気にせずにすぐ忘れてしまいましょう。それが、一日を楽しく生きる方法かもしれません。
■□4月の法話■□
●独坐大雄峰(どくざだいゆうほう)
少し前でしたか、占い師の細木数子さんがテレビで、水星人(誕生日によって計算して、を六つの星人にわかれる)の人は四月九日に宝くじを買えば、当たると言われていました。家内に計算してもらうと、僕は水星人に当たるそうで、すぐにカレンダーに○をつけてしまいました。たまたま、昨日は四月九日。午後時間がとれたので、宝くじを買いにと言うわけでもないのですが、街に出かけてきました。初めて宝くじ売り場にいったのですが、宝くじは売り切れ。やはり、「お金は寂しがりやのところには来ない」と言われるようにお金には縁がないのようです。
そうわ言っても、わたしたちは、あれが欲しい、これが欲しいと、欲望だらけのようです。これは物質的なものだけでなく、長生きしたいとか、健康でいたいとか、・・・・などの欲望もあります。
しかし、その欲望がかなえられても、かなえられなくても、わたしたちは満足は出来ないのです。つまり、欲望の奴隷になっているのではないでしょうか。
ここで禅の言葉の登場です。「独坐大雄峰」という言葉があります。これは次のようなお話から出てきたものです。
ある僧が、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師(名僧・馬祖道一禅師の弟子)に、
「如何なるか是れ奇特の事」と尋ねたところ、百丈禅師が、
「独坐大雄峰」と答えたところに由来しています。
「奇特」とは、優れている、尊い、素晴らしい、ありがたい、不思議な霊験、御利益など、の意味です。僧は、「禅にはどんな霊験や御利益があるのでしょうか」、または「この世で尊く、素晴らしいことは何でしょうか」と百丈禅師に尋ねるのです。そこで百丈禅師は「わたしは大雄山の山の中で、こうして堂々と坐禅しています」と答えたのです。ここで大雄峰というのは、今いる場所のことです。
僧は、ありがたいものは、お釈迦さま、あるいは現実的な金銀財宝などと考えていたのかもしれません。しかし、百丈禅師の答えは、「ここに、どっかりと坐っていることが、すばらしいことだ」と。
世間の基準は、時代によって、地域によって変化します。多分、現在は何でも買えるよう錯覚をおこさせるお金があることが、すばらしいことかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。お金も絶対的なものではないからです。
百丈禅師の言葉は相対的なものに、一喜一憂しているわたしたちに、本当にすばらしいものは何かを教えてくれているのです。今わたしたちが、「ここに、どかっと坐っている」ことです。それだけでいいのだと。
百丈禅師はすべてに自由に生きておられるのです。わたしたちも、欲望の奴隷ではなく自由に生きてみたいですね。
■□3月の法話■□
●渇愛について
三月早々大きな事件がありました。今まで世界の大富豪と言われた西武グループの総帥堤義明氏が逮捕されたことです。
彼は父である堤康二郎氏の後継者として幼いときから教育を受けていました。その教育は堤家の財産をきちんと守り、そのためには、友達をつくらないこと、身内でも信用しなとのことだったようです。彼はそれを忠実に守り、西武グループの総帥として権力を一手に握り、土地を買って、そこにホテルを造り、会社を大きくしていきました。ただ、あまりにも財産を守ることに囚われたために、一般の会社のルールが見えなくなり、逮捕という結果になったように思えてきます。
これは大金持ちの話だけではありません。ひょっとしたら、私たちにも係わってくる問題があります。
例えば、ここに五百万円の年収がある人がいたとしましょう。子供も成長し、学費のお金がかかるようになったら、出来たら八百万円の年収になって欲しいと考えるでしょう。そして実際にそうなったら、そこで満足できるでしょうか。多分、出来たら一千万円の年収になればと思うに決まっています。どんどん欲望はエスカレートしていくはずです。
それと同じように、西武の堤氏も初めは親から受け継いだ財産で充分だったはずです。しかし、それでは満足出来ず、どんどん欲望は膨れあがっていったのではないでしょうか。
仏教では、わたしたちが持っている根元的な欲望を、昔のインドの言葉で「トリシュナー」と言っています。これは本来「渇き」という意味で、のどがカラカラに渇いているとき、めったやたらに水が飲みたくなります。そのような激しい欲望、盲目的な衝動を「トリシュナー」と呼びます。中国のお経になると、それを「渇愛」と表現するようになります。
海で遭難します。何日も水が飲めません。そこで、渇きに耐えかねて、海水を飲んだとします。そうすると、また海水を飲まざるをえません。飲んだ海水が、渇きをどんどん増大させるからです。欲望も同じ原理です。
だから、仏教は、「渇愛」は充足よっては解決できないと教えます。では、どうすればいいのでしょうか。それには、欲望を少なくすること、つまり少欲によってだと教えます。ただし、これは、誤解されている「無欲」ではないということです。私たちの欲は亡くなるまであります。その欲を少しでも少なくする。それによって私たちは幸せな生き方が出来ると言うのです。
幸せは、私たちが思っている、お金があるなしではないようです。
■□2月の法話■□
●好きになろうとするけれど・・・・
わたしたちの心は不思議なものだと感じる時があります。
例えば、ある人を好きなると、何から何まですべてが好きになってしまいます。ところが、きらいになると何から何まできらいになり、憎しみまで持ち始めてしまいます。
特に、きらいという気持ちは、小さいときから祖父母や親、また学校でみんなと仲良くしなさいと教えられてきたので、その感情はどこか悪いと思いながらも、現実にはきらいという気持ちがこころから離れていかない時があります。
そこで、何とかきらいな相手を好きになろうと、良い点を見つけようとするのですが、それが見えてこない。いろいろなことをしていくのですが、すべて徒労に終わってしまう。そこでまた悩んでしまうのです。
そんな時にわたしたちはどうすればいいのでしょうか。
仏教では「怨憎会苦」(おんぞうえく)という言葉があります。怨み、憎しむ人と会うことは苦だと言うのです。ただ、この「苦」は苦しむという意味ではありません。インドの古典語のサンスクリット語で、「苦」のことを「ドゥフカ」といい、「思うがままにならないこと」といった意味なのです。
怨まないようにしよう、憎しまないようにしよう、きらいにならないにしよう、としても、現実にはそうなってしまいます。まさに、それらは思うままにならないことなのだと言うわけです。
江戸時代に生きた禅僧で盤珪という方がいます。その説法を集めた『盤珪禅師法語』の中にこの問題の解決法を教えてくれています。
「皆の衆が思はしやるとて、惜しや欲しや、瞋(いか)り腹立の念が起るを止めうとなされて、それを留めますれば、二つの念が起りまして、走る者を追ふごとくにござる。起る念と止めうと存ずる念が戦ひまして、永代止まぬ物でござる。・・・・(略)・・・・
然らば、如何(いかが)致して止むことぞと思はしやらうが、縦(たと)ひ、ふと思はず知らずに、瞋(いか)り腹立の出ることが御座らうとも、或ひは又、惜しや欲しやの念が出で来ませうとも、それは出次第に致して、その念を重ねて育てず、執着せずに、起る念を止めうとも止めまいとも、取合はねば止(や)まうより外の事は御座らぬ。垣と争論は独りしては成りませぬ。その相手が御座らぬ程に、自ら止まいでは叶(かな)ひませぬ。たとひ又色々の念が起りまするとも、その起り出した当座ばかり、当年三つ四つの幼稚の子供の遊びのやうに、嬉しくも悲しくも、続いて其念に拘らず、止まうとも、止むまいとも、思はず知らず居さつしやる所が、取りも直さず不生の仏心で居るといふものでござる。かうした心持で常に居さしやるがようござる。」
この話は、わたしたちは自分の思いをどうにかしようとします。しかし、そうすると、心が二つに分かれ、ますます心が動揺してしまいます。所詮、わたしたちの思いは実体のないものなのですから、放っておきなさいと盤珪は教えられています。つまり、世の中には馬の合わない人がいます。そんな時は、あえて好きになる必要はないということでしょう。
人間の世界はややこしいものですね。
■□1月の法話■□
●一期一会
新年明けましておめでとうございます。
本年も昨年同様、法蔵禅寺にご協力を賜りますようよろしくお願い申し上げます。
年頭にあたり、表題の言葉をあげました。これは、江戸時代末の政治家であり茶人だった井伊直弼の『一会集』にある言葉です。
「そもそも茶の交会は、一期一会といいて、たとえば幾たび同じ主客と交会するとも、今日の会に再びかえらざることを思えば、実にわれ一世一度の会なり」
いくたび同じ亭主と客が、同じ席、同じお道具で茶事をしようが、今日のこの茶事は再び戻らないことを思えば、実に一生に一度きりのものである、と直弼は言います。
「一期」は一生を、「一会」は一度の出会いという意味です。これはお茶の世界のことだけではありません。つまり、「一期一会」とは、一生涯にただ一度の出会い、邂逅であるということです。そのただ一度の出会いを大切にしなければ、もう二度とそのチャンスはないのです。ですから、今は今しかない、今は帰ってこない、今を大切にしなさいと言うことを意味します。
ところが、わたしたちはこんなことはなかなか思いはしません。例えば、入学や入社した当初は張りつめた気持ちがあるのに、時間が経つと気が抜けてしまったりします。また、久しぶりに友達と会うことになっていたのが、急用で会えなくなってしまい、結局その時電話で話したのが、最後になってしまったことなどが考えられます。
仏教では、この世は無常で、会う者は必ず別れる運命にあるということを、「会者定離」と言います。出会った時が別れの始まりであり、そのまま会い続けることはできないと言うのです。
会うは別れの始まりということは、二度と同じ出会いはないということです。だからこそ、一瞬の出会いを大切にしなければならないのです。
何ごとも一期一会と思って、それらに全身全霊を注ぐことは、「物になりきる」または「一心になる」ということです。仏教ではこのことを「三昧」と言います。三昧は「定」という意味で、心を一境に専注することなのです。
明日また会えるだろう相手でも、二度と会えないという気持ちで出会いを大切にし、別れを惜しむのです。また物事においても同じように一期一会の気持ちで接するのです。そのとき、必ず物事は成就でき、生命の充実と生きる喜びを感ずることができるはずです。
今年も充実した一年をお過ごし下さい。
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