■□12月の法話■□
●けんかしないで・・・・
私たちの生きていく上での悩みの大半は、人間関係にあると思います。
夫婦の間、姑と嫁の間、上司と部下の間、友達の間、ご近所の間など、数えればいくらでも出てきそうです。そんな中での人間関係から色々ないさかいが生じてきます。まったく鬱陶しくなるようなものです。
しかし、私たちは生きていく限り、この問題から逃れることはできません。ただし、亡くなってしまえば別ですが。
最近、親子の間での問題でお寺に相談に来られた方がありました。その方は娘さんなのですが、お母さんと同居。たまには、一緒に旅行などに行かれていたのです。ところが、何かの拍子に二人の間に、齟齬が生じ、突然お母さんが家を出て行かれてしまったのです。ご夫婦はなんとか家に戻ってもらおうとしたのですが、お母さんはそのままアパートに住んでいるとのことでした。
その時、思いついたのが、「とんち」で有名なの一休さんの話です。
ある時、ある人から家宝にしたいので一筆したためてほしいと頼まれました。その時、一休さんは、はじめに骸骨の絵を二つ描き、次の言葉を添えたそうです。
けんかしないでくらそじやないか
末はたがいにこの姿
この言葉は単純に、「けんかをしていてもしょうがないじゃない。なかよくしなさい」と言っているのでありません。
考えてみれば、けんかはお互いのエゴのぶつかり合いでしかありません。そのけんかがいかに愚かなことかを一休は言っているのです。
しかも、一休さんは二つの骸骨を描いています。その意味するものは、一つはけんかをしている私たちであり、もう一つはけんかをして、憎らしい相手ということですが、それが骸骨になっているところです。それは、今生きているから、常に「自分、自分」となるので、それを「死んだ」時点からものごとを見たらどうかと言っているのではないでしょうか。
一休は、「人間いつかは結局、骸骨になってしまう、みんな死んでしまうのですよ。そう考えれば、今のエゴの張り合いでのけんかなんて、まったく愚かなことじゃないですか」と言っているように思えます。
私たちは自分が正しくて、相手が悪いと思いがちです。そこには、自分が欲望やエゴを持っていないかのような錯覚があります。
死んで骸骨になった時点から眺めれば、自分のエゴにも気づくはずです。そして憎らしいと思う人と同じように、エゴがあると思えるでしょう。だから、できるだけ、できるだけ、お互い仲良くやっていきましょうよというわけです。
■□11月の法話■□
●ただ揀択(けんじゃく)を嫌う
過日のことです。差し歯をしていた歯からカバーが取れてしまいました。
歯医者さんにすぐ行けばいいのですが、何か気の重たさがあってすぐには行けないのです。かといって、このまま放っておくこともできず・・・。そうこうしていると、家内から、「どうして歯医者さんに行かないの」と。やっと意を決して行ってきました。
皆さんも、こんな気持ちになったことはないでしょうか。
考えると、歯医者さんで診察台に坐っている感覚というのは、イヤなものです。他の人が治療を受けていると、あの「ギーン」という器具のたてるを音を聞こえてくるではないですか。その音を聞くと、治療を受けずに帰ってしまおうかと思えてきます。
だんだん順番が近づくと、その気持ちはより一層高まってきます。ついに、私の番。
先生は坦々と私の歯を調べていきます。そしてレントゲンを撮られ、カバーが外れた歯だけではなく、他の歯も虫歯がと言われます。とりあえず、今日はカバーを治し、虫歯の部分を治療とのこと。いよいよ始まりです。
私は、「えぃ」と意を決して、諦めると、あの「ギーン」という音が、耳元で鳴り始めました。口を大きく開けていると、器具が歯にあたるのがわかります。しばらくして、音はやみ、その部分に詰め物をすると治療は終わりました。
思っていたより、痛みもなく無事治療は終わり。「なんだ、こんなものか」との感じです。
ところで、中国禅宗三祖僧サン禅師が禅の真髄を表現した『信心銘』という禅の語録に、「至道は無難なり。ただ揀擇(けんじゃく)を嫌う」という言葉があります。
「至道」は人として行なうべき最高の道であり、究極の真理(悟り)をさしています。「無難」とは難しくはないということです。「ただ揀擇を嫌う」の揀擇は選ぶ、したがってより好みをきらうことです。
至道は手の届かないところにあるのではなく、ごく手近にあって、これは好きだからいい美しいからいいとか、これは醜いからとて捨てるというように、えり好みをし、比較するから、究極の真理(悟り)に行き着けないのです。だから揀擇を嫌うというのです。つまり、二つの対立したこと(善・悪、好き・嫌い、美・醜、是・非など)に執着し、比較さえしなければ、究極の真理(悟り)を得ることはさほど難しいことではないという意味です。
私の場合で言えば、怖いと思っていることに執着していたのです。だから、診察台に坐ると、その思いが最高潮に達してしまう。しかし、実際に治療を受けてみると、「なんだ、こんなものか」となってしまうのです。
自分にとって、いいと思われることであろうが、悪いと思われることであろうが、揀擇しないで、それをそのまんま受け入れことです。そこに一つの新しい道が開けてくるはずです。
次の診療の時は、心が多少穏やかなっていたような気持ちでした。
■□10月の法話■□
●若者の振る舞いに・・
江戸時代中期に白隠禅師という禅僧がいました。白隱は臨済宗の中興の祖といわれ名僧です。その白隠に、坐禅の根本精神を一般の人々にわかりやすく説いた、『坐禅和讃』というものがあります。
「衆生本来仏なり。水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし。衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ。譬えば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり。・・・・」
意味としては、衆生とは一切の生きとし生けるものを指します。つまり、生きとし生けるものはすべて皆、仏と本来は同一である。それは、水と氷のようなもので、水を離れて氷がないように、衆生のほかに仏はない。だが、衆生は愚かにも、仏が近くにいるのを知らないで、遠くに求めている。たとえば水の中で、のどが渇いたと言っているようなものだというというものです。
現に生きているわたしたちは、悩んだり、悲しんだり、喜んだりしています。しかし、白隱はこのようなわたしたちであろうと、この身このままで仏だということです。
仏であるということは、言えば幸福そのものということです。しかし、わたしたちには自分が仏であるという自覚がありません。それで、自分は不幸だと思い込み、必死になって外に幸福を求めているような愚かなことをしていると白隱は言っているのです。
また、昔の人の言葉に、「自分自身を幸福だと思わない人間は、決して幸福ではない」というのがあります。
例えば、あなたがパートで時給750円。毎日、毎日仕事を終えて、家に帰り、夕飯がおかず一品にお汁だけの生活だとしましょう。はたして、それが、不幸なのでしょうか。貧乏でも楽しく一日一日を楽しく生きている幸福な人は大勢いることでしょう。病気になっても、病気になったことが、不幸とは限りません。逆に、健康であっても、健康すぎて不倫に走り、家族がばらばらになってしまうことだってあります。それが幸福でしょうか。病気だったために、浮気ができないともいえます。
人間はいかなる状態にあっても、「いま、ここ」が一番いいのです。その意識を持てなかった、たぶんどこに行っても、幸福はないと古人は言っているのです。
期せずして、白隱と古人は同じことを言っているようです。今のわたしたちには仏の自覚はできないかもしれません。それでも、「今が幸せ」と自分に言い聞かせることはできます。そして、それを続けることです。ここに幸福に生きる秘决がありそうな気がします。
■□9月の法話■□
●若者の振る舞いに・・
昨日は、出かけることがあって、お寺を出てしばらくすると、雨がひどくなってきました。あまりひどいので、途中民家の軒先で少し雨宿り。ただ、バスの時間があるので、まだひどく降っている雨の中をバス停まで急いでいきました。ズボンはずぶぬれ状態です。
バスに乗り込むと、大学生らしいグループ5,6人が後ろの座席(二人用のもの)に一人づつ、足をだらしなく投げ出し坐っていました。そして、大きな声でしりとりです。1、2、3・・・・と数を言って、「あ」は何とかと言っているのです。
私としては、雨でズボンはずぶぬれ、気分はすぐれないし、カンに障る大きな声です。「おまえらは何を考えているのか」と言ってやりたい気分に襲われました。そしてこの若者に対して、腹が立ってしまいました。
このような経験は皆さんもどこかで経験したことがあるのではないでしょうか。そのようは場合、皆さんはどうされるのでしょう。
注意されるのでしょうか。無視して、放っておくのでしょうか。あるいは、バスの運転手に言って、注意をしてもらうのでしょうか。
では、仏教ではこのような場合、どうすればいいと言うでしょうか。
私も腹立たしい気持ちのなか、外を見ながら考えていました。
ふと思いついたのは、仏教では、放っておけばよいと教えているということです。それは何故かと言えば、仏教では、苦を「苦」にするなと言うからです。仏教の言う「苦」は、苦しいとかつらいといった意味ではなく、「思うがままにならないこと」といった意味があります。
例えば、この若者たちに注意をしたとしましょう。言い方にもよるでしょうが、素直に聞く場合と、逆に切れられてしまう場合があると思います。前者の場合は、大声で話すことをやめ、きちんと座席に座り直すか、聞いたふりをして、そのまま改めないか、またはブツブツと文句を言いながら、少し改めるかが考えられます。後者の場合は、切れて、喧嘩になってしまうと考えられます。どちらにしても、いい結果にはなりません。
他人に対して、言ってどうにかなるものではないのではないでしょうか。いまの状態を思うがままにしようとすると、逆に苦しみとなってきます。ちょうど交通渋滞に巻き込まれたときと同じで、それから逃れようとしないで、それを気にしないで生きているとよいのです。
つまり、他人は思うがままにならいなことです。だから、思うがままにしようとしなければいいのです。それが、苦を「苦」にするなといった意味です。
私たちは何かあると、他人から迷惑を受けていると考えます。しかし、他人は逆に私から迷惑を受けていると思っているかもしれません。どちらにしても、自分のことはなかなか見えないのです。この若者たちと同じことを知らないうちに私たちもしているかもしれないと思い、放っておいて、人間観察でもしているのがいいでしょう。
これが私たちのこころの健康にとってはよいことかもしれませんね。
■□8月の法話■□
●世渡りの悪い人へ
世間には世渡りの悪い人がいます。なにをやってもうまくいかず、いつも何かの壁に当たってしまう人です。
しかし、このような人は、心の底では、他人が上司やいろいろな人に対してペコペコ頭を下げたり、言った人に対して、「なんだ、あんなおべんちゃらを言って」というさげすむ気持ちがあるように見えます。
要領よく立ち居振る舞いをして、出世したり、得をしたりしていることに、やっかみの気持ちを持っているのです。自分としては、そんなに軽々しくお世辞なんか言うような人間とは違う、という自尊心があるのでしょう。つまり、世渡りの悪い人は、それなりに一生懸命やっていることを、みんなに認めて欲しいのではないでしょうか。
世渡りが下手だ、と自分で認め、その下手なことがもし気になるようであったら、上手になるよう努めるべきです。認めてもらうように努めるべきでしょう。それは、なにも、おべんちゃらを言ったり、お世辞を言ったりして、うまく立ち回ることを言っているわけではありません。言葉で言うことが苦手だったら、行動で示せばいいのではないでしょうか。
どんなに世渡りの下手な人でも、家族あるいは自分自身が大きな手術にのぞむ時は、お医者さんや看護婦さんに、一生懸命に「お願いします」と言ったり、心から手を合わす気になるではないでしょうか。
また愛する恋人には、いかに筆不精な人でも、せっせとラブレターを書いたり、自分の気持ちを打ち明けるため積極的な行動にでるではないでしょうか。ほんとうに必要なことには、どんな人であろうとも、それなりに賢くなり、情熱もでてくるはずです。
最近は上司が荷物を持とうするのを、黙って見ている若者もいるようです。しかし、すぐさま「その荷物を、もちましょうか」と声をかける人もいます。さっさと荷物をもって、「さあ、まいりましょう」と声をかける人もいます。
上手、下手の問題でなく、やろうとする気持ちがあるか、ないかの問題ではないでしょうか。どんな道でも、下積みの仕事に汗を流す努力をしてこそ、自然に報いられてくるものなのです。
人間は環境、教育などによって見方、考え方が形づくられてきます。世渡りの悪い生き方もそれらによって出来上がったものでしょう。長年培われたものですから、そう簡単には考え方は変えられないかもしれません。しかし、それでは苦しみ、悩んでしまいます。 わたしたちはいろんなこだわりをもってものを見ていますが、それをこだわりなく見ようとするのが仏教です。
世渡りが悪いとかいいとかは比べて上での話です。こだわりなく物事を見ながら、自分なりに楽しく生きていくことに努めた方がいいのではないでしょうか。
■□7月の法話■□
●如実知見(にょじつちけん)
お寺というのは、色々な方が訪れてきます。悩みの相談であったり、法事のお願いであったり、セールスの方が来られたり、ホームレスの方が物乞いにこられたりと、種々多用なことで来られます。
時間の余裕があれば、それはそれで対応できるのですが、時間がない時もあります。そんな時は、悪いと思いながら途中で話を打ち切らせていただくこともあります。これは致し方がないと言えば、それまでですが、こんな時は身が二つあればと思ってしまいます。
ある時、60歳すぎの婦人が四、五人でお寺の庭を見に来られたことがあります。当寺は門に柵がしていないので、誰でも入って来られます。この婦人たちもそれで入ってこられたようです。しばらく庭の写真を写されたと思ったら、今度は苔の中にハイヒールで入って行かれ、また写真を撮っています。
たまたま接客で、本堂にいた私は、
「何をしている。どこに入っているのか」
と大声を上げて怒鳴ってしまいました。
せっかく大切に育てている苔を、ハイヒールのような靴で踏みつけていたからです。
すぐに、婦人たちは、何かぶつくさ言いながら、「ごめんなさい」とも言わず、そそくさと帰っていかれました。
これ以後は、当寺を拝観にこられる方々がイヤになり、なるべくお断りをするようになってしまいました。
わたしたちいうのは、おもしろいもので、好きになれない行為を見てしまうと、その人の全てがイヤになってしまうことがあります。今回の場合だと、婦人グループが拝観に訪れるだけで、おなじようなタイプと思ってしまい、その他の人々もおなじだと決めつけてしまうのです。あるいはたった一言で、友達の関係が壊れることさえあります。
わたしたちは、意識するとしないとにかかわらず、「色メガネ」でものを見ています。「思いこみ」というメガネでものを見ているのです。
しかし、これでは、せっかく縁によって出会えるかもしれない人々を、すべて遠ざけていることになるのではないでしょうか。
ま、なかにはどうしてもイヤな人はいるのですが。
仏教では、そのメガネを取りなさいと教えています。事実を事実としてあるがままに、ものの真実の相を正しく見極めなさいと言うことです。それを、「如実知見(にょじつちけん)」と言います。
こだわらずに生きるには、色メガネをかけて、ものごとを見ているという自覚が必要ということです。
婦人のグループが来られても、イヤだなーと思わないようにしないといけませんね。
■□6月の法話■□
●忘れること
最近、物忘れがひどいと気づくことがあります。例えば、何かを取りに、二階へ上がっていくとします。階段を上がり、ちょっと他のこと気になっていると、「何を取りに二階に来たのか」と思って、しばらくじっと考えるのです。何度も何度も思う出そうとするのですが、思い出せないのです。
ところで、精神分析を大系づけたフロイトが「人は不快な記憶を忘れることによって防衛する」と言っています。
人間はいろいろなことを経験します。当然、すべてのことを覚えていると思うのですが、そうではないのです。そこには選択が行われ、楽しいことは覚え、悲しいとか苦しいことは忘れていくのです。自己防衛本能が働くということです。だから、忘れるというのは人間にとって大切なことなのです。
しかし、実際生きているわたしたちはどうでしょうか。どうでもいいことに囚われ、忘れないでいます。
わたしたちは生きていると、さまざまなことに出会い、喜ぶこともありますが、ほとんどが悲しんだり、苦しんだり、悩んだりします。不幸・悲しみ、いやなことにぶつかります。そんな時、忘れればいいことなのに、忘れないでいるのです。そして、時には、「もう、どうでもいい」と思い、死んでしまいたいと気持ちに襲われることもあります。
そんな時、死んでしまってはどうしようもありません。これでは、いままで生きてきたことがすべてなくなってしまいます。だから、私たちは、辛抱して生きているのではないでしょうか。
そして、しばらくがまんをしていると、あの時思っていた「死んでしまえ」ということもかすんできます。「時薬(ときぐすり)」と言われるように、囚われていたことがらが、時間の経過によって、いやなできごとすべてを忘れさせてくれるのです。
忘れるということは、本当はいいことなのではないかと思えてきます。
昭和を代表する禅僧の一人に、沢木興道という方がいました。曹洞宗の本山永平寺で修行をし、坐禅のすばらしさを説くために全国を飛び回って、「宿無し興道」と呼ばれていたのです。その方の言葉に、「死んでから、人生を考えてみれば、どうでもよかった」とあります。
悲しことや苦しいことに出会っていても、その時、死んだ地点から、いまの状況を眺めれば、囚われが収まり、気持ちに余裕が生まれ、冷静な目でものごとを見ることができるとこの言葉は言っているではないでしょうか。
これも忘れることと同じ作用があります。悲しみや苦しみに出会ったら、この沢木興道老師の言葉を思い出して下さい。必ず悲しみや苦しみの思いは乗り越えられるはずです。
■□5月の法話■□
●余計なことは考えず
私たちは生きていると、さまざまなことに出会います。特に、人間関係、仕事のこと、家族のこと、健康のこと、・・・・など、毎日いろいろな問題が襲ってきます。一つの問題が解決したとしても、次に問題がやってきます。その繰り返しが、毎日のような気がしてしまいます。
「こんなに一生懸命生きているのに、どうして楽しく生きていけないのだろうか」
と、ふと思いながら生きている人は多いのではないでしょうか。
では、どうすれば楽しく生きていくことができるのでしょうか。
中国臨済宗の開祖、臨済禅師の言葉に次の言葉があります。
「已起(いき)の者は継ぐことなかれ、未起の者は放起せんことを要せざれ」
意味は、すでに起こってしまった思いはそれを発展させないようにしなさい。まだ起こっていない思いについては、いつも気をつけて、思い浮かばないようにしなさい、ということです。
禅では、あれこれ思い煩うことを嫌います。それは、私たちの「こころ」は本来清らかなので、その本来の「こころ」に任せて生きれば何事もうまくゆくと教えるからです。
しかし、実際生きている私たちの「心」はどうでしょうか。何時も右往左往ばかりしています。それは勝手に私たちが思いで計らってしまうからです。つまり、生まれたときから、私たちの心は根本的な無知(無明)に覆われていたということです。
しかし、私たちの「こころ」は根本的な無知のためになくなったのではないのです。妄想や煩悩によって、つまり私たちに起こる思いによって、清らかな「こころ」が覆われているだけなのです。
ところで、私たちは自分の思いにこだわってしまいます。例えば、将来については、もし今心配しているとそれにこだわり、心配するような現実になってしまいます。逆に、心配しないでいれば、そのような心配するような悪いことは起こらないはずです。過去についても同じことが言えます。これはゴルフの時、池があり、それをはずしてボールを打とうと考えると、見事に池にボールがはまってしまうことと同じかもしれません。私たちの思いはすべてを現実化する力があるようです。
「こんなに一生懸命生きているのに、どうして楽しく生きていけないのだろうか」なんて思わないようにしましょう。その思いで私たちは落ち込んでしまうからです。
それより、浮かんできた思いに囚われず、目の前のことに真心を込めて打ち込んで行くことが大切ではないでしょうか。
余計なことは考えずに生きることによって、楽しく生きていくことができるでしょう。
■□4月の法話■□
●滴水滴凍(てきすいてきとう)
わたしたちは毎日仕事に励んでいます。そのなかで、気をつかったり、悩んだりすることがあります。人間関係です。
これは、わたしたちが生きている限り避けることができない関係です。朝起きて、電車に乗り、会社に行くと、部下に対してどう対応するか、会議でどのような発言をするか、プロジェクトを立ち上げるのに、誰に協力を依頼するかなど、さまざまなことがらに人間関係は関わってきます。
うまく行く場合はいいのですが、一旦人間関係が崩れると、大変です。特に、職場などでは、なにかの失敗によって、怒られることがよくあります。理由が明確になればいいのですが、なかなかそうはいきません。こちらに非がないのに、怒られてしまう。そんな時はこちらとしては、怒った人に対して逆に怒ってしまい、一日中気分が悪くなってしまいます。そして、その人に会う度に、不快な気持ちになっていきます。
怒ってもどうしようもないのですが、そう思ってもなかなか怒りは治まりません。どうすれば怒りが治まるのでしょうか。
中国の宋の時代を生きた禅のお坊さんに宏智正覚(わんししょうがく)という方がいます。その人の言葉に「滴水滴凍(てきすいてきとう)」というのがあります。意味は、一滴の水がたまるのを待たず瞬時に凍ってしまいます。そこから転じて、心に生まれた妄想をいつまでもくすぶらせることなく、そのつど浄化させよという意味です。
この言葉は怒りを治めるいいヒントです。
怒る時のことを考えてください。怒るときは、言葉や人という対象があります。その対象を今度はこころが追いかけ、囚われてしましまいます。「あの人が言ったあの言葉は自分の心を傷つけた」「理由がなにもないのにただ怒るだけだ」など。どんどん言葉という対象を追いかけて、頭の中で考えがめぐり、怒りとなってしまうのです。つまり、勝手にわたしたちが「妄想」してしまい、怒ってしまうのです。そして心に芽生えた妄想を、そのままにし、持続させるのでは、あまり馬鹿げたことではないでしょうか。
たしかにわたしたちは死ぬまで妄想を持ちながら生き続けるでしょう。しかし、妄想に引きずられて一生を終えていいものでしょうか。それでは悲しすぎます。
宏智禅師の「滴水滴凍」という言葉は、心に生まれる色々な思い(妄想)をいつまでもくすぶらせることなく、その時その時で忘れていきなさいと言っているように思えます。
まさに、それは「泣いて暮らすも一生。笑って暮らすも一生」と言うことわざと同じではないでしょうか。泣くのは、自分の心の中にこだわるもの、つまり妄想があるから、泣いて一生を送ってしまうのです。そんなことにこだわらずに、明るく、笑って楽しく人生を生きていこうというです。
怒ってもその時だけで。
■□3月の法話■□
●すべてが修行
日本の禅宗の一派である曹洞宗を開かれた道元禅師が中国に行かれたときのお話しです。
夏の暑い日、一人の老典座(禅寺の食事係)が椎茸を干していました。道元は、その老典座に年齢を問うと、六十八だと老人は答えました。
「この寺には若い修行者が沢山います。なにも六十八になるご高齢のあなたが、椎茸を干すといった雑用をしないでよいではないですか。ほかの人にやらせたらどうですか」 と道元は老典座にそう言いました。
すると、その老僧が言うのです。
「他はこれ吾にあらず」
他人はわしじゃない、わしはわしの仕事をしておるのだ、という返事です。
道元はびっくりします。そこで、こう言いました。
「よくわかりました。けれども、いまは炎天下ではありませんか。もう少し日が陰ってからになさればいいじゃありませんか」
「なんぞ他時を待たん」
いまやらなくて、いつするのだ、ということです。
それが老典座の言葉です。
わたしたちは仏教は難しい教えであり、特に禅といえば、それを高尚で難解なもののように思っています。でも、そうではないのです。この老典座の言われるように、禅というのは、簡単なことなのです。それは、「いま、ここで、わたし」がすべきことをする。それができれば禅が出来たということです。
わたしたちの身の回りには、さまざまな、雑用があります。なんだか雑用ばかりに思われることがあるほど、雑用だらけです。けれども、自分のなすべき仕事を「雑用」だなどと思っていると、うんざりしてきていやになります。
禅の教えは、それが、「いま、ここで、わたしが」しなければならないことをしっかりとせよ、というものです。誰かが代わりにしてくれないか、あとでしようなどと考えていると、よけいにいやになるのです。
だから、「いま、ここで、わたしが」なすべき仕事であれば、それをしっかりとする。そのような心構えでもってなすべきことをなすのが、禅の修行です。その仕事を禅の修行だと思ってすればよいのです。
例えば、食事をつくること、お茶を出すこと、コピーをすることなど、雑用と思えることをせざるっっをえないときがあります。そんな時、それらを「雑用」と思わないことです。すべてが「天職」と考えて、たのしく用事をこなしてみたらどうでしょう。気分まで、楽しくなるはずです。
■□2月の法話■□
●身から出たサビ
人間生きていると山あり、谷ありです。いいときもあれば悪いときもあります。
特にあまり順調でないときに、その人間がどういう人間だかわかる気がします。
例えば、仕事でも勉強でもいいでしょう。なにかのことで、大きな失敗をしたとします。その時、「彼のせいでうまくいかなかった」、「先生の教え方が悪いから」、「課長の指示が悪いから」などと、他に責任を持っていく傾向の人があります。つまり、失敗の原因を、すべて他のせいにしてしまうのです。
逆に、何かうまくいった場合は、「やっぱり自分には実力があるな」と思うのではないでしょうか。はなはだ勝手な生き方ですよね。
一方、失敗をしたら、その原因をつくったのは自分なのだと考える傾向の人がいます。例えば、自分が売ろうとしている商品が売れないのは、会社の方針や景気、市場、あるいは先生の教え方等のせいだと考えたとしましょう。しかし、よく見ると、同じ商品をきちんと売っている人もいることや、また他社の同じような商品は売れていることがわかってきます。そうすると、原因は他ではなく、自分だと。そうだとすれば、前向きに考えて、売り方や勉強方法を工夫しようと考えるはずです。
責任を他に転嫁する人は、成功すれば天狗になり、失敗すれば「あいつが悪い」と考えてしまいます。そんな生き方はおかしいのではないでしょうか。 これでは人間の成長がありません。
相田みつをは次のように言っています。
いいことは
おかげさま
わるいことは
身から
出たさび
(相田みつを著『一生感動一生青春』文化出版局)
私たちの身にに起きることがらには、本当に外に原因のあること、責任のあることもゼロではないでしょう。しかしそれはしれています。ほとんどは「自分」に責任があると考えておいて間違いないのではないでしょうか。
悪いことは自分の身から出たさびなのです。もっと、自分に失敗の原因を求め、反省、改善していくところに人としての成長があるような気がします。
いいことはすべては「おかげさま」と思えば、どんな出来事も積極的に受け取れ、生き生きと生きていくことができるのはないしょうか。
■□1月の法話■□
●無事是れ貴人(ぶじこれきにん)
明けまして、おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
昨年はみなさんにとってどのようなお年だったでしょうか。色々あったかもしれませんが、それはそれ。新しい年になったのですから、気分を一新して今年一年を生きましょう。
ところで、中国臨済宗の開祖・臨済義玄の言葉に、
「無事是れ貴人、但だ造作すること莫れ、祗だ是れ平常なり」というのがあります。
「無事」という言葉は、「平穏無事に」だとか「無事を祈る」などのように困ったことがない、あるいは健康であるという意味で、私たちはふだんよく使っています。
しかし、禅の教えでは意味が違います。「無事」は、仏や道や救いを、つまり本当の幸せや安らぎを外や他に求めない心の有り様を言います。臨済の言葉で言えば、「求心歇む処、即ち無事」と言われるように、外に向かって求める心がなくなったところを、「無事」と言うのです。
人間は生れながらにして、仏性(純粋な人間性)をもっています。しかし、私たちはそれを忘れて、外に向かって、仏や道や真理、本当の幸せや安らぎを求めてウロウロし、あくせくしています。
例えば、テレビでおいしいと紹介されたケーキがあれば、それを買いにお菓子屋まで行き、長蛇の列ができてしまいます。タレントが健康にいいと言えば、その野菜を買いに行き、スーパーではその野菜が品切れになると言います。
その姿を見るにつけ、それらは心の中にある「なにか物足りないもの」を私たちは無意識に満たそうとしているように思えてくるのです。つまりは、なにかを求めることによって、本当は幸せを求めていると言えるのではないでしょうか。
しかし、臨済からすれば、このように外に求めている限り、本当の幸せも安らぎもないと、「無事是れ貴人」という言葉によって、私たちの行動を戒めているように思われます。「無事是れ貴人」とは、何ものをも求めず、あるがままの人間本来の姿に徹したままの人こそ、貴い存在であるという意味です。私たちの足元にはすでに、安らぎも幸せもあるのです。それが本当にわかり、外に求める必要がないと実感できたところが無事と言っているのです。外に求めず、自分の中にわけ入って、もう一人の自分に出会うよう努めなさいと、禅は教えるのです。
いつもあれこれが欲しいと思っている私たちには本来の意味で、無事に過ごすことは、なかなかむずかしいかもしれません。それは煩悩(身心を悩ませる無数の精神作用)があるからです。しかし、少しでも、安らいで日々を生きるには、欲望にふりまわされないことが必要でしょう。それには、今・ここが本当に「ありがたい」と自分自身に言い聞かせて、生きることではないでしょうか。つまり、幸せは、今・ここにしかないということです。
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