■□12月の法話■□



●どんな老後を

 最近、気になることがあります。風邪をよく引くことと、それがなかなか治らないことです。身体が衰え始めた徴候なのでしょうか。
 そこで、皆さんにお聞きしたい。皆さんはどんな老後を迎えたいでしょうか。例えば、認知症にならずに、健康で朗らかに暮らせれば、それでいいとか。
 多分、多くの方はそう思っていることとでしょう。
 しかしなぜ、「明るい老後」「健康な老後」でなくてはいけないのでしょうか。それは、多くの方が、つまり世間の物差しが老後はそうあるべきだ、としているからです。
 そうなると、老後、病気になった人は大変です。「どうして私だけが病気に……」という思いに囚われて、つらい日々を送ることになってしまいます。
 仏教では、「生老病死」を教えます。この世は思いどおりになりません。人間がこの世に生まれ、老いること、病気になること、死にゆくこともそうです。その苦悩を「生老病死」と言います。生老病死はいのちあるものすべてに与えられたさだめということです。
 つまり、私たちの生にとって、病気になることはさだめなのです。それを、「明るい老後」「健康な老後」でなくてはいけないと思うから、逆に私たちは苦しんでしまうのです。
 ところで、『近世畸人伝』という書物にこんな話が載っています。
 ある人が世捨て人となり、山奥に入り、住んでいました。山奥までの険しい道の途中には底を川が流れる深い谷があって丸木橋が一本かかっているだけです。つまり、この丸木橋が山奥と里をつなぐ唯一のライフラインということです。
 世捨て人はふと考えにしまいます。「もし、この丸木橋が洪水で流されてしまったら、どうしよう。里に下りられなくなり、食料を確保できないのではないか」と。
 不安の思いに囚われていた世捨て人ですが、ある時ふと気づきます。丸木橋が洪水で流されてしまって、食料が確保できないことになったら、それはほとけさまがそう決められたことなんだ。ほとけさまがお決めになったことなのだから、その時には私の命が尽きるだけのことじゃないか。そう思ったとたん、不安は雲散霧消して安らかに暮らせるようになった、といいます。
 私たちは。世間の物差しによって、明るく健康で朗らかに暮らす老後でなくてはと思い描くから、それに縛られ「そうならなかったらどうしよう」と不安にもなるのです。
 どんなに老後の青写真を私たちが描いたところで、すべては絵に描いた餅でしかありません。いくら明るく健康で朗らかに暮らす老後を思い描いたとしても、認知症になったり、病気がちの老後がやってくるかもしれないのです。そうなってしまったら、それはほとけさまがお決めになったこと、人知の及ぶところではないと明らめることです。
 残りの人生はどれだけかわかりません。だからこそ、一日一日を少しでも楽しく生きれば、それでいいのではないでしょうか。


■□11月の法話■□



●淡きこと水の如し

 私たちは人間ですから、気の合う人もいれば、気の合わない人もいます。好きな人もいれば、苦手な人もいます。これは私たちが生きている限り、避けて通れないものです。
 では、気の合わない人、好きでない人が近くにいた場合はどうすればいいのでしょうか。
 ま、こんな場合は、無理して合わせよう、好きになろうとしても、うまくいかないでしょう。そのように努力すればするほど、イヤな面が気になって、「やっぱり合わない、好きになれない」という気持ちのほうが強くなるものなのです。
 昔の中国思想家である荘子の言葉に、「君子の交わりは淡きこと水の如し」というものがあります。「君子の交わり」とは、「賢明な人の、人づき合い」ということ。「淡きこと水の如し」とは、「あっさりとしている」という。つまり、賢明な人は「あの人が苦手だ」とか「あの人のことが許せない」といったように、いわばドロドロとした感情的なつき合いはしないで、淡々としたつき合い方をしているということです。
 私たちは、苦手だ、嫌いだ、許せない、といった、悪い感情が生じてしまうと、その感情からなかなか抜け出せなくなってしまいます。
 ですから、そのようなドロドロとした感情が生じないように、君子のように誰に対しても「淡きこと水の如し」といったような、淡々としたつき合い方を心がけていくほうがいいと思います。
 そうはいっても、私たち凡人。聖人君子のような生き方はできないようです。仏教ではその原因は執着があるからだと言います。執着というのは、ものにとらわれる心です。相手への憎しみにとらわれることも執着ですが、憎んではいけないと思い込むのもまた執着です。どちらに転んでも、人は幸せになれません。どちらへの執着も超えて、とらわれない心境になれれば、幸せがやってくるのです。
 だったら、私たちは悪口を言いたくなったら、言えばいいのです。そもそも、日常会話でも、常に他人への評価をいくらか含んでいます。「あの人は、おしゃべりが得意だ」「あの人は、掃除が嫌いらしい」と言ってみることも大切なことです。
 もちろん、どれも悪口と受け取らなければそうとも言えますが、悪口と受け取れば、悪口にもなり得ます。
 ですから人は他人とコミュニケーションをする以上、意図せずとも悪口からは逃れられないようです。
 気の合わない人、好きでない人が近くにいた場合は必要以上に仲良くなろうとは思わないことです。ただ、だからといって冷淡になってしまうのでもなく、適度な距離感を保ちながらつき合っていくことも必要です。
「君子の交わりは淡きこと水の如し」です。さらりと嫌いと思い、後はすばや忘れてしまうことです。


■□10月の法話■□



●遊戯三昧〈ゆげざんまい〉

 私たちは,物事が順調に運んでいるときは余計なことは考えません。ところが、体調を崩したり、何か大きなことが起こるといろいろと考えてしまいます。
 ま、それほどでもないのですが、朝起きて何か気持ちがすぐれない時などに、次のような気持ちになってしまうことがあります。
 「今日は仕事に行きたくないな」
 「今日は何もしたくないな」
 「気持ちがスカッとしない」
 私たちは、一度そういったマイナスの感情に心を奪われると、その思いは、簡単には消えません。逆に、その思いをなくそうとすればするほどますます強くなっていってしまいます。
 それはちょうど、眠れなくなった夜と同じです。眠れない、眠れないと気にすればするほど、かえって眠れなくなります。
 要するに、こだわりがいけないのです。こだわりがなくなれば、あんがい眠れてしまうのです。つまり、マイナスの感情に心が奪われても、その感情にこだわるなと言うことです。
 もっとも、そうは言っても、どうすればこだわりをなくせるでしょうか。そこのところがむずかしい。私たちは、こだわりをなくそうとすれば、かえってこだわりをなくすことにこだわってしまいそうですから。
 ところで、禅の言葉に「遊戯三昧〈ゆげざんまい〉」というものがあります。『無門関』という禅の語録にある言葉です。
 「遊戯」とは、ただ遊び戯れるということではありません。無心に遊んでいる時、私たちの心は何事からも解放されています。遊戯という言葉は、雑念を持たず、遊ぶことを表わしているのです。また「三昧」とは、「ありのままに、正しく受ける」という意味があるので、「どんなことでも真っ正面から受け止め、やり尽くす」という意味を表します。
 つまり、遊戯三昧とは、まず、雑念を持たず、遊ぶことに一心になりなさいという教えであり、もう一つは、たとえ嫌いなこと、やりたくないことがあったとしても、それもすべて楽しんでやるほうがいいという教えでもあるのです。
 私たちは生きていればいろいろなことがあります。すべての日が順風満帆なんていうことはありません。気が進まないことにも、あえて取り組まなければいけない場合もあるはずです。
 朝起きて、たとえイヤな感情に襲われても、それを気にすることなく、とにかく行動すべきです。初めは、いろいろ思いが浮かんでくるかもしれませんが、放っておくこと。暫くたつと、その仕事に熱中できるようにもなっていることに、気づくはずです。。
 「嫌い」「辛い」「やりたくない」というマイナスの感情に心をとらわれたら、「遊戯三昧」という言葉を思い出して下さい。とにかく人生を楽しむようにしましょう。


■□9月の法話■□



●功徳など無いぞ

 バスの中などで、私たちはお年寄りや身体の不自由な人に座席を譲る時があります。そんな時、その相手からお礼を言われると、私たちはついついいい気持ちになってしまうことがあります。
 最初は、お礼など言われなくてもいいのだ、とわかっていたはず。しかし、そのうちにお礼を期待するようになったり、相手を査定するようになったります。ましてや傲慢な態度の人には、あまり席を譲りたくなくなったりしてしまいます。人情と言えば、人情かもしれません。
 どちらにしても、私たちは心のどこかで、「見返り」というものにとらわれてしまってしまうようです。ただ、この気持ちが強ければ強いほど、がっかりをとおり越して、強い怒りを感じることになってしまいます。ヤケになって、暴言を吐いたり、反対にまったくやる気を失ってしまうことにもなりかねません。
 そんな時は、次の言葉を思い出してみてはいかがでしょう。「無功徳」という言葉です。
 中国の梁の武帝が、インドからはるばるやってきたダルマ大師を都に召いて、「私は即位以来、お寺を建てたり、仏像を造ったり、お経を写したり、僧侶を度したりしたことは、数えきれないほどですが、どんな功徳があるのでしょうか」と尋ねた時に、ダルマは、「無功徳」(どれもすべて功徳にはならない)と答えたということです。
 この話から「無功徳」という言葉はきています。ダルマ大師は武帝の仏教に対する貢献を認めていなかったわけではありません。立派なことをしたことは重々わかっていたのです。ただ、武帝が、あれもしたこれもしたと、功徳を積んだことを、自負したり、恩にきせたり、誉められたり、崇められたりされることを、期待しているのでは、何もならない、と教えたかったのです。素晴らしい行いをしても、見返りに執着しているようでは、その徳など無きに等しい、ということです。
 私たちは武帝のように、大きな功徳を積むようなことはできません。だが、私たちの心の中にも武帝と同じように、見返りが欲しいという思いがあるはずです。
 禅の教えは、一切の欲望や執着にとらわれない自由な生き方をめざします。それには、見返りが欲しいというような思いをまず手放しなさいと言います。握りしめている思いを手放すということです。
 見返りを期待して頑張るのではなく、自分がやりたいから、楽しいから頑張るという方向に、意識を転換して生きていくことです。「今・ここ」を私たちは大事に生きていけばよいのです。


■□8月の法話■□



●大道、長安に透(とお)る

 人生はよく「道」にたとえられます。そういう意味でしょうか、生きるとは「長い道を歩いていくようなものだ」と、よく言われるのです。
 その長い道のりの途中で、挫折をして泣き出したい気持ちになっている人もいるでしょう。「もう歩き疲れた」という気持ちになって、途方に暮れている人もいるかもしれません。
 そんな人のために、次のような禅問答があります。
 ある時、修行者が、師匠の趙州に、「生きていくための素晴らしい道とは、どういうことですか」と問いました。
 その趙州は、「垣根のそばにも道はあるではないか」と答えました。
 しかし、問うた修行者は納得しません。そこで、さらに「道とは何ですか」と問いました。
 趙州は、「寝て、起きて、坐禅をして、食事をして、作務(掃除など)をすること。これらがすべて道だ。この道を日々コツコツと進んでいけば、やがて長安に至ることができよう(大道、長安に透(とお)る)」と。
 このような話です。
 「長安」とは、唐時代の中国の首都です。この話は、当時の中国の禅僧が言ったものなので長安という地名が出てきますが、これは、私たちの日常茶飯事(毎日のありふれたこと)がすべで禅の悟りへの道だということを意味しています。そこから、「人生の目的」「願望の達成」と理解してもいいでしょう。
 趙州から言えば、私たちが朝起きて顔を洗うのも禅の道であり、ご飯を頂くこともすべて禅の道なのです。
 つまり、私たちがなにげなく行っている日常生活そのものが禅の実践でなければならない。にもかかわらず、私たちは日常生活の外に禅の道を求めていたのです。その愚かさを、趙州は叱っています。
 私たちが人生に挫折しても、寝て起きるという日常生活の営みには変わりありません。生きることに疲れて途方に暮れてしまっても、坐って、食べて、掃除をするという日常生活の営みも変わりはないのです。
 私たちは、生きていれば、よいこともあれば、つらいこともあります。その度に、私たちは心を揺さぶられてしまっています。趙州は、それでも日々の営みをきっちりこなしていくことで平常心に立ち返り、しっかりと生を前に進め、そして目的に達することができると言うのです。
 とにかく何が起ころうと、目の前にあることをきっちりこなしていくことです。それが、禅の大切な教えなのです。


■□7月の法話■□



●瓦を磨いて鏡に

 私たちは時々、他人と対立し、争いになることがあります。普通に考えれば、相手には非があるのに、それでも此方は堪えていないととおさまりがつかないことがあります。当然、気持ちはむしゃくしゃ。一日中気分が悪く、気持ちは落ち着かないのです。
 自分は正しいと思えば思うほど、イライラがつのってしまいます。
 しかし、考えてみれば、自分の考えはそんなに正しいでしょうか。多分、そんなには正しいとはかぎらないのではないでしょうか。
 そういう意識をもっていないと、他人が言うことに耳を貸さず、思い込みで突き進んでしまうのです。
 たとえば、何かを始めようとします。この方法でやれば、きっとうまくいくに違いないと考え、実際に、その方法に従って事を進めます。だが、思ったとおりに運ぶとは限りません。周りの人から、横やりを入れられ、結局、その事は成就することはなく、徒労に終わってしまったことがなかったでしょうか。
 自分は「正しい」と思い込み、ひとつの方法だけにとらわれてしまうと、うまくいかないときに「こんなはずではなかった」と落胆してしまうのです。
 私たちは、時に「自分のやり方が正しいのか」と反省することも必要でしょう。そのやり方ではうまくいかないと気づいたら、柔軟に方向転換をすることも必要なようです。  禅の公案に「瓦を磨いて鏡にする」という公案があります。「南嶽磨甎」という公案です。
 修行僧が坐禅をしていたところに和尚が「何をしているのだ」と話しかけました。すると修行僧は、「坐禅をしています」と言います。さらに和尚が、「なぜ坐禅をするのだ」 と再び問うと、修行僧は「坐禅をして仏になりとうございます」と。「それは感心なことだ」とだけ和尚は言うと、突然、落ちている瓦の破片を拾い、磨き出したのです。「和尚さま、なにをなさっているのですか」と修行僧が尋ねます。和尚は「鏡にしようと思う」と答えました。修行僧が「そんな瓦、いくら磨いても鏡にはなりませんよ」と言ったところ、和尚はすかさずこう言い放ちました。「では、坐禅をして仏になれるのか」と。
 こんな内容の問答です。「瓦」をいくら磨いても、鏡になるはずはありません。これは、結果を求めずに無心で努力をする尊さを説く教えです。穿った見方をすれば、間違った方法に心をとらわれて、努力をしても意味がないという教えともとれます。
 私たちは、時に自分の考えや思い込みにとらわれることはよくあることです。だからこそ、ときどき自分の考えや、やり方が正しいかどうか反省をして、間違いに気づくことが大切になるのです。
 自分の考えは正しいと思ったら、それは「こだわり」でしかないと気づく必要がありそうです。


■□6月の法話■□



●柳は緑、花は紅

 私たちには、人によく見てもらいたいという思いが誰でもあるようです。例えば、きちんとした会などで、皆の前で話をしなければならないとき、やたら緊張してしまったりします。そこには、格好いい自分を見せたいとか、周りから一目置かれたいという気持ちがあるからではないでしょうか。
 そのことが、良い方向にいけば、努力して勉強をしたり、自分を磨くようになるでしょう。しかし、その思いが強すぎると、悪い方向へ行ってしまいます。自分をよりよく見せようとして無理な買い物をしたり、無理な仕事なのに、自分一人でできると虚勢を張ったりするといった、見栄につながってきます。
 しかし、いくら見栄を張っても、自分の実力が本来の自分の実力を偽っているのですから、うまくはいかないでしょう。そして、無理がたたって、精神的に疲れてしまいます。そして、必要以上に自信を喪失して、劣等感にさいなまれることになってしまうのです。
 では、どうすればいいのでしょうか。
 禅の言葉に「柳は緑、花は紅、真面目」(『東坡禅喜集』)という言葉があります。これは、「春になると、柳は緑色の葉を、花は赤く咲く。これこそが本来のありのままの姿であり、すなわちそれが本来の真面目なのだ」という意味です。「人間も、白然の草花のように、自然の成り行きに任せて生きていくのがいい」ということなのです。
 私たちは本来、執着心などもたない存在だと禅は教えます。人によく見てもらいたいという私たちの思いは執着です。つまり、執着があれば劣等感で悩んだり、苦しんだりします。だから、その思いを捨て、「本来の自分」にリセットすれば自分らしく生きることができると説くのです。
 「自分をよく見せたい」「好かれたい」「注目されたい」といった思いがあるかぎり、執着に心をとらわれていることです。本来の自分を見失っているのです。だからこそ、執着を捨てて、本来の自分に戻ることが大切だ、と指摘しているのです。
 今、当寺には紅葉が緑の葉をきれいに広げています。水を吸い、養分をたくわえ、時がくるのをじっと待って、今緑の葉広げているのです。無理をしなくても、自然は美しく芽吹き、すばらしい花を咲かせます。
 人もまた同じです。無理をして虚勢を張らなくても、できる努力を着々と重ねていけば、それで十分なのです。やるだけのことをやったら、あとは自然の流れに任せてしまえばいい。ありのままの姿であることが、一番、疲れ知らずで、かつ、自分を美しく咲かせる最高の生き方なのです。
 見栄やプライドを捨て去り、「本来の自分」に戻ってみませんか。


■□5月の法話■□



●公案(こうあん)

 私たちの周りには、時に悩みが何もないかのような人がいます。映画「男はつらいよ」のフーテンの寅さんのような人です。時代に流されることなく、我が道を自由に生きていていくような感じを与える人です。
 そんな人を見ると、私たちは、「あの人はいいな。たいした悩みがなくて」と思ってしまいます。
 人は生きているといろいろなことがあります。失敗をしたり、ミスをしたり、悲しんだり、傷ついたり、怒ったりすることが多々あります。そんなことがあると、私たちはマイナスの感情に引きずられて、気持ちが沈んでしまいます。こんな時、寅さんのような人をみると、気持ちがいらついてしまうのではないでしょうか。「なんてあの人は能天気なの」と。
 別に寅さんのような人が悪い訳ではない。ただ、私たちが自分の感情に引きずられてしまって、寅さんのような人を貶しているだけなのです。
 こう思うと、私たちは二つのタイプがあるようです。一つは、マイナスの感情をずっと引きずってしまうか、もう一つは気持ちの切り替えが上手かです。切り替えのうまい人は、感情を上手にあつかっているのです。
 引きずってしまう人は、一つのこと、一つの解答にこだわっています。どうしようもない問題にこだわって、それを解決しなければ事態はよくならないと思い込んでいるので、心が折れてしまうのです。
 しかし、冷静に見れば、選択肢はたくさんあります。例えば、誰か嫌われていることに悩んでいるなら、無理にその人に気に入られようとすることは諦めればいいのです。別に他に友達がいるのですから、それだけがすべてではないはずです。
 何か心に引っかかる悩みや問題事があると、嘆くだけではなく、この方法がダメなら、こっちの方法はどうだろう、あっちの方法はどうだろうと、いくつもの選択肢を考えてみることが大切なのではないでしょうか。
 常日頃からそういうことをやっていれば、自然に物事を多面的に見られるようになってきます。だから、ちょっと問題が発生しても、「ああ、これがダメでも、あっちがあるから、まあいいや」と考えて、悩んでも、引きずることなく立ち直ることができるというわけです。
 さて、禅には「公案」という、修行者が悟りを開くため、師より研究課題として与えられる問題があります。私たちが問題や悩みに出会うのも、仏様から「どうするのか」と問われている公案だと思えば気持ちが少し楽になるはずです。公案を解くことによって私たちは人生の修行をさせて頂いているのです。


■□4月の法話■□



●目は横に、鼻は直に

 朝、ふと鏡を覗くことがあります。すると、歳を取った顔と頭に白いものが交じっているのに気づいてしまいます。気持ちは、まだまだと思っているのですが、現実には日々歳を取ってくことを実感します。
 白髪は、ある程度の年齢になれば、誰でも生えてくるものです。若いうちから生える人もいれば、だいぶ齢を重ねるまで生えない人もいます。どちらにしても、私たちは歳を取ると、頭がはげるか、白髪になるかのどちらかなはずです。
 人間の髪の毛は、約10万本あるそうです。そのうち、何パーセント白髪があれば、その人は白髪なのでしょうか。5パーセントでしょうか、10パーセントでしょうか。気にする人は、多分1パーセントでも気になるかもしれません。あるいは、白髪があっても一切、気にならない人もいます。
 それなのに、1本や2本白髪があったからといって気にする人がいます。そのような人は白髪を全部抜いて、ハゲになるしかないでしょう。私たちは、このようにつまらないことに引っかかり、悩み、苦しむようです。
 ところで、日本禅宗の一つである曹洞宗の開祖に道元禅師という方がいます。丁度、鎌倉時代の初めのころです。道元は国を代表するようなエリートとして、中国に七年間留学します。その道元が日本に帰ってきました。その当時の僧侶は、中国から新しい経典や仏像、新たな思想などをもち帰ってきたのです。
 ところが道元は、七年におよぶ中国の留学生活から何をもち帰ったのだろうと期待に目を輝かせる人々に対して、「眼横鼻直」と言い放ち、さらに「空手にして郷に還る。所以に一毫の仏法なし」といってのけたのです。
「私は、目は横に、鼻はまっすぐついているということを修行で得てきました。だから、経典や仏像、新たな思想などのみやげなどありません。仏の教えにはまったく関係がないからです」という意味です。
「目は横に、鼻は直に」と言われると私たちは、何を当たり前なことをと思われるかもしれません。しかし、この道元の言葉が譬えなのです。すんだことはいくら悔いてももとには戻せない。なまければ仕事はとどこおり、一生懸命励めば、仕事も勉学も進む。つまり、ものごとを、あるがままに見る、ということです。これこそが仏教の真髄なのですから、経典や仏像などは持ち帰る必要はなかったのです。
 私たちは、あたりまえのこと、あるがままのことを世間の常識やものにとらわれたメガネで見ているのです。そのメガネをはずしたときに、このことばの意味を理解することができるのです。
 歳を取れば、白髪が生えるのは当たり前。何も歳を取ることが駄目なのではないのです。それはそれで受け入れればいいのです。残りの人生を楽しく、坦々と今を生きることが大切ではないでしょうか。


■□3月の法話■□



●念起こる、これ病なり

 最近、図書館に行った時のことです。
 一人の老人男性が受付の方に何か言っていました。ところが、しばらくすると突然、受付の方に高圧的なもの言いになり、罵倒する場面に遭遇しました。聞くところによると、他でも怒る老人が増えているのだそうです。
 考えてみれば、私たちもいろいろな場面でカチンとなることがあります。例えば、友達と話ながら歩いている時です。すれ違いざまに誰かと肩がぶつかり、「痛いなあ。気をつけろ」とカチンときたり、ひどい場合には相手に向かってその言葉を言ってしまう人がいるかもしれません。ただし、それだけで忘れてしまえばいいのですが、その怒りの感情がずっと続く時があります。
 そんな日は、一日中イヤな気分で過ごすことになってしまいます。この原因は、私たちがその事実を何時までも気にしてしまうからです。では、気にしないようにするには、どうすればいいのでしょうか。
 禅には私たちが人生を充実して生きるために必要な教えが豊富にあります。今回は、「念起こる、これ病なり。続かざる、これ薬なり」(『元亨釈書』)という言葉です。意味は、心がきちんと整っているなら、過去のことなど思い出さないでいられるはず。だから思い出すというのは心が少し病んでいるということなのだ。しかし、これを癒す薬がある。それはこの念を発展させない、続けない、ということだ」ということです。
 今回の場合であれば、肩を当てられ、カチンとしたことを何時までも覚えていてはいけないということです。
 ところが、私たちは、頭の訓練をしなければ記憶力は衰え、ぼけてしまうのではないかと恐れています。そこで、脳トレなどをやって頭を鍛えようとしてしまう。忘れてはいけないという強迫観念に囚われてしまっているのです。
 かと言って、私たちが忘れないでいると、何かを思い出す時には必ずと言っていいほど、イヤなことを思い出してしまいます。すると、あの時自分にされたイヤなこととか、怒られたことなどが思い出され、怒り、憎しみが募ってくるのです。
 つまり、忘れないようにする気持ちも大切でしょうが、時には忘れることも必要なのです。「念を続けない」という訓練もしておかないと、イヤなことのみを思い出してしまうというばかげたことになってしまうのです。
 人間にとって、忘れることは大事なことです。だが、私たちは忘れた方がいいことを、ついつい忘れてはいけないと考えて、逆に苦しむようです。イヤな念は続けないようにしましょう。


■□2月の法話■□



●他人の評価が……

 私たちは「人からよく思われたい」「自分について、どんな噂がされているのか」という評価に自分の気持ちがとらわれることがあります。
 しかし、そんな気持ちにとらわれて生きることは、自分自身に大きな精神的ストレスをかけることになります。いつも他人のちょっとした言動に神経をとがらせながら、心をすり減らして生きていくうちに、自分という意識を失っていくからです。そして、他人の評価に自分の心をふり回されてしまうことになってしまうのです。
 ただ、人によってその意識に違いがみられます。ある人は他人の評価を非常に気にするのに、別の人はまるで無視したように生きているように思えることがあるからです。この差は評価を気にするか、しないかの違いなのでしょう。
 そうは言っても、やはり私たちは心のどこかでは他人の評価を気にしているところがあるように思います。だいたいどんな人でも、他人から言われる言葉に一喜一憂する態度がちょっとした仕草に現れているからです。
 では、どうやれば他人の評価を気にしないようにすることができるのでしょうか。無視をすればいいのでしょうか。
 こんな時にはやはり禅の言葉です。それに「回光返照(えこうへんしょう)」というものがあります。
 「回光」の回は、転換するという意味で、光は光明のことで、私たちの中にある清らかな心(仏性)を指しています。「返照」は、夕陽が照り返ることの意味ですが、ここでは外に求める心を内に向けて、清らかな心(仏性)を照見することをいいます。つまり「回光返照」とは、とかく外に向かって求める心を翻して、内にある自己に目を向けることにより、清らかな心(仏性)というものを見極めるということなのです。
 簡単に言えば、外へ向かっている意識を内面へ向け、自分自身に光をあてて、自分らしさを見つめることが大切だ、ということです。
 私たちは何を行っても他人から評価されます。いい評価も悪い評価もあるでしょう。しかし、それらはあくまで他人の評価なのです。いい評価を得るために私たちは躍起になり、さらにはそれにとらわれて、挙げ句の果ては自分の心が乱れしまうのです。ばかばかしいとは思わないでしょうか。
 大事なのはその場その時で自分で自分の達成感、納得感を得ることです。自分が達成感を得られたか、納得できたか、というところに軸足を置くべきではないでしょうか。
 評価は他人が決めるものです。いってみれば、他人が勝手に貼るレッテル。そんなものに振りまわされるなんて馬鹿馬鹿しいと、はやく気づいてしまいましょう。
 他人から受ける評価や評判ばかりを意識していては、自分らしさを見失ってしまいます。自分の人生は自分が生きるしかないのです。自分らしい生き方はどういうものかについて、もっと深く考えることが必要でしょう。


■□1月の法話■□




●明日を期する事なかれ

  人の悩みの多くは「後悔」の一言に尽きると言っていいのではないでしょうか。
 私事で恐縮ですが、お寺には、今日はここまでという決まりや、何時に始まり、何時に終わるという決まりがありません。「これでいい」というところがないのです。だから、しばりがないので、ついつい、なまけ心が顔を出すことがあります。
 ただ、さぼれば、庭に草は生えてくるは、木々が枝を伸ばし、やることがどんどん溜まっていくばかりです。誰をうらむわけにもいかない。自分が蒔いた種なので、自分で体を動かして、草取りや木々の剪定をしなくてはいけないのです。
 そうにもかかわらず、「今日はなんだか乗らない。これ以上がんばっても無駄」という思いが、時に湧いてきます。友達から誘いがかかれば、これ幸いと飲みに出かけたりします。
 結局、ツケが回ってきて、この年末にばたばたと作業をする羽目になってしまいました。後悔先に立たずです。
 ところで、曹洞宗のお坊さんで懐奘禅師という方がいます。その懐奘が曹洞宗の開祖・道元禅師の言ったことを記録した『正法眼蔵随聞記』に次の言葉があります。「学道の人は、只、明日を期する事なかれ 今日今時ばかり、仏に随って行じゆくべきなり」
 この意味は、学道の人とは仏の道を歩む人です。それに対して、「今日できることを明日に延ばすな」という教えなのです。どんなことをする場合も、「明日にしよう」と先送りしてはならないということです。
 ところが、私たちは、ともすれば現実の厳しさから逃げたくなることがあります。苦しみ、悲しみに耐えきれず、責任を回避したくなるのです。現実を逃避し、ありもしない未来を夢みたり、あるいは、もはや変えることがことができない過去にこだわっています。それが馬鹿げたことであることに、なかなか私たちは気づこうとしないのです。まさに、道元の言葉は、こんな私たちに言われているもののようです。
 私たちは、「今」・「ここ」をしか生きることはできないのです。今やっている仕事を、精一杯にやること。精一杯にやるというのは、百点満点を取れということではありません。六十点でもいいのです。ともかくそれを精一杯にやることです。 どんなことがあろうと、私たちは他人の人生を生きられないのです。そのことを、はっきりと認識しておくべきでしょう。その認識に立って、私たちは「今・ここ」を精一杯に生きねばならないのです。今日のことは今日するべきでしょう。


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