■□12月の法話■□



●人前に出て話をする時……

 人前に出て話をする時、緊張してしまう人は結構多いのではないでしょうか。結婚式のスピーチや会議で突然ふられて何か言わなくてはならいない時などです。
 緊張のあまり、心臓はばくばく、脚はがくがくして、全身から汗がどっと噴き出してくるような感じで、いわゆる「あがる」という状態になってしまいます。
 「失敗したら、どうしよう」
 「もし失敗したら恥をかくことになる」
 「頭の中がまっ白になって、動揺してしまったら、どうしよう」
 「みんなの笑い者になってしまうのではないか」
 こんなふうに失敗を恐れていたら、余計にガチガチになってしまい、本当に大失敗をしかねません。
 では、人前に出て話す時の緊張する心を、どう片づければいいのでしょうか。
 世間でよく言われているのは、手のひらに「人」という字を書いて呑み込むというものです。ただ、その効果は気やすめの域を出ないようです。
 こんな時は禅の言葉がヒントを与えてくれます。「両忘(りょうぼう)」という言葉があります。
 これは、中国宋代の儒学者・程明道が書き著わした『定性書(ていせいしょ)』に、「内外を両忘するに若(し)かず、両忘すれば則ち澄然無事」とあり、その中の言葉です。どちらが善か悪か、白か黒か、得か損かなど、相対的な対立を忘れ去り、二元的な考え方から脱することを言います。両極端な考え方をしない、ということを意味しています。つまり、どちらかに決めようとするのではなく、どちらも忘れる。こうした考え方ができると、物事への執着がなくるということです。
 私たちは何ごとにおいても何とか成功したいという思いがあります。その一方で、「失敗したら、どうしよう」という気持ちも抱いてしまいます。
 このようにして、ことに望む時には「成功」か「失敗」かという、両極端な思いに心がとらわれてしまうのです。成功したいという意欲は、頑張るために必要かもしれません。しかし、一方で失敗するのは嫌だといった気持ちにふり回され、動揺してしまいます。
 どちらにしても、どちらかに執着することには変わりありません。そうすると私たちの気持ちはがんじがらめになってしまうのです。
 だから、成功したい、失敗したくないという極端な思いに心をとらわれないことが大事になってきます。「両忘」を心がける方がいいのです。成功か失敗か考えないで、どとらも忘れることです。二択で考えるのをやめてみる。そう決めるだけで、気持ちが楽になるはずです。
 たかがちょっとした話をするだけです。そこでの成功や失敗は、長い人生から見れば、たいしたことはないでしょう。そのわずか一時に、成功しても失敗しても、その後も人生は続いていきます。両極端にとらわれる考え方から遠ざかることが大切です。ある意味、開き直って、「どうちらでもいいよ」ぐらいな気持ちをもてば、要らない緊張も薄らいでいくでしょう。
 多くの人がいても大丈夫。話を始めてみましょう。


■□11月の法話■□



●而今(にこん)

 生きていれば、私たちには毎日、いろいろなことが起こります。
 仕事で悔しい思いや、理不尽な思いをすること、友達と気まずい雰囲気になったりしてしまうことも多いかもしれません。
 その度に私たちは落ちこんでしまいます。どうしてこんな目に遭わなければいけないのかとかお先真っ暗だというように、暗い気持ちで一杯になってしまうのです。
 考えてみれば、このような出来事は誰にとっても日常茶飯事ではないでしょうか。私たちは日々生きている中で、何度もこのようなイヤな出来事を経験しながら暮らしているからです。
 だから、イヤな出来事を経験した時にどのようにして気持ちを切り替えるかが、元気に暮らしていけるかどうかの大切なポイントになるはずです。
 気持ちの切り替えが下手な人はいつまでもイヤな思いを引きずってしまい、明日も、明後日も、クヨクヨした気持ちを引きずってしまいます。何度も起こるイヤなことで、いちいち思い悩んでいたら楽しく暮らしてはいけないのではないでしょうか。
 では、どうすればいいのでしょうか。こんな時は禅の言葉がヒントを与えてくれます。 「而今(にこん)」という禅語があります。この「而今」には、「まさに今」という意味があります。この言葉で重要なのは、「今」です。つまり、「而今」とは、「過去のことは過ぎ去ったことと。だから、今この時に集中して生きていくのがいい。そうすれば明るい希望が開けていく」ということを意味しているのです。
 禅では、坐禅する時には、坐禅することだけに集中するように心がけます。同じように、。掃除をする時には、掃除をすることだけに集中します。食事をする時も、食事をすることだけに集中します。お茶を飲む時には、お茶を飲むことだけに集中します。
 そのように「今に集中する」ということを行っていくことで、イヤな出来事から生ずる後悔や悩みというマイナス感情に振り回されない心をを作っていくのです。
 それは修行僧だからできると思わないでください。「今に集中する」ことは誰でも意識すれば行うことができると思います。
 仕事をしている時は、その仕事にだけ集中します。食事をしながら仕事のことを考えたり、パソコンで作業しながらサンドイッチを食べる、といった「ながら族」を止めればいいのです。
 このように「今に集中する」ということを積み重ねていくことで、イヤな出来事から生ずる後悔や悩みというマイナス感情に引きずられることがなくなるはずです。それによって気持ちを切り替えができるようになったからです。
 一日一日を大切にしっかり生きればいいのです。そうすれば、私たちの心はおのずと安らぎ、生きることが充実するでしょう。


■□10月の法話■□



●期待しすぎないように

 他人のせいで落ち込んだり、イライラしてしまうことが、私たちにはよくあります。
 ある人は、その原因を、他人に期待しすぎるから、深く落ち込むと言われいました。つまり、他人のせいで落ち込んだり、イライラしまいやすい人は、「人に対して期待しやすい」という特徴があるということです。
 そういう人の心の中には、
 「年下なら年上に対して敬語を使いうのが当たり前」
 「親切にしてあげたんだから、お礼を言うのは当たり前」
 「ベテランなんだから、仕事ができて当たり前」
 というように「……してくれるのが当たり前」と自分の中で勝手な常識が作られているようです。
 そのために、相手が期待どおりの言動をしてくれないと、「当たり前のことなのに、どうして」と不満を感じてしまい、イヤな思いをすることになってしまうのです。
 しかし、自分では当たり前と思うことが、相手にとっても当たり前とは限りません。世の中には、そんな「当たり前」のことができない人がたくさんいるのが現実なのではないでしょうか。
 当たり前のことができない人に、いちいち腹を立てていたら、一日中怒っていなければならなくなるでしょう。
 ところで、仏教では、私たちはいろいろな煩悩によって身と心を縛られていると教えます。なかでも貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)というのが、最も根本的な煩悩で、三毒(さんどく)と言われます。貪は貪りであり、瞋は怒り、癡は愚かさを意味します。
 私たちが相手に期待(貪)をして応えてもらっても、自分の思いと違えば期待外れとなり不満に感じ(瞋)、「何もわかってない」(癡)となります。そして、イライラしてしまうというのです。
 また鎌倉時代後期の文筆家である吉田兼好は、「よろずの事は頼むべからず、愚かなる人は、ふかく物を頼むゆえに怨み怒ることあり」と『徒然草』の中で言っています。わかりやすくいえば、何事においても過剰な期待を持たないほうがいい。愚かな人は、過剰な期待を持つために、期待はずれに終わった時、人を恨んだり、怒ったり、落ち込んだりする」ということです。
 つまり、これらの教えは、他人には過度の期待を寄せてはならない、期待すると、逆に私たちが苦しむとと教えてくれているのです。
 私たちはついつい他人に期待してしまいます。それは何も悪いことではありません。ただ、私たちがイライラしないためには、他人に「こうするのは当たり前だ」という思いを捨てるべきでしょう。他人に対する期待感は八割ぐらいに抑えておけばいいのです。「まあ、こんなものかな」と考えていれば、私たちはイライラするのではなく、心穏やかにいられるのではないでしょうか。


■□9月の法話■□



●思い込みはとらわれに……

 私たちは、知らず知らずのうちに、さまざまな「思い込み」にとらわれているものです。
 たとえば、「これはいい」「あれは正しくない」と物事を決めつけようとします。それは、私たちのほとんどの人が多かれ少なかれ、これまでに学んだ常識や固定観念に縛られているからです。その思い込みは、いつのまにか根拠のない確信となり、物事を判断するときの基準になったりもします。
 そのせいで、時にはそれらの「思い込み」が自分にとっていいことだと勘違いし、さまざまな「ねばならない」で、私たちを身動きがとれない状態にしてしまうことさえあるのです。
 常識や一般論は、「真理」ではありません。つまり、何が「いい」か「悪い」かは、視点や状況によって変わるもの。非常にあいまいなもので、本人の思い込みにすぎない場合も少なからずあるからです。
 禅には次のような話があります。
 昔、坐禅ばかりをして、いっこうに悟りが開けない馬祖という修行僧がいました。ある時、師の南嶽は馬祖の前で、いきなり瓦を磨きはじめました。馬祖が、「何をしているのですか」と聞くと、「磨いて鏡にする」と言います。
 そこで馬祖は「瓦を磨いても鏡にはならないではないですか」と師に言ったのです。すると南嶽は、「おまえがしていることも同じだ。自分が仏性のない人間だと思って坐禅をしても、悟りは開けない。おまえは牛車が動かないからといって、牛ではなく車を打っているようなものじゃ」と言ったという話です。
 つまり、この話は、結果を求めずに無心で努力をする尊さを説く教えです。ただ見方を変えると、間違った方法に心をとらわれて努力をしても意味がないという教えと考えてもいいでしょう。
 私たちが考えや思い込みにとらわれることは、よくあることです。それによって、私たちは窮屈な生活をしています。「かくあらねばならぬ」といった「こだわり」に束縛されしまうからです。いや、束縛されているのではなく、自分で自分を束縛しているのです。そして、悩み、苦しんでしまうのです。
 禅は、この世の中の価値観つまり、常識や固定概念に執着するのはよくない、ほんのちょっと「こだわり」を捨てて、もっと自由に生きること教えます。
 私たちが安らかに生きるためには、時々「自分の思っていることが、正しいのかどうか」を省みて、間違いに気づくことが大切なようです。


■□8月の法話■□



●人生は、思い通りにならないことが……

 人生は、思い通りにならないことがたくさんあります。
 たとえば、友人たちと一緒に、山にハイキングに行き、川原でバーベキューをして楽しもう、という計画があったとしましょう。しかし、その当日、大雨になってハイキングが中止。外出もできず、一日中家の中に閉じこもっていなければならないことになりました。楽しみにしていたことが中止なのですから、ガッカリです。すべてがマイナスに思えてきてしまいます。
 私たちの多くは自分の思い通りにいかないことがあったときは、イライラしたり不安になったりして、マイナスの感情が湧いてくるものです。
 そんなとき、気持ちを切り替えてくれる言葉があります。江戸時代初期の臨済宗の僧・沢庵の言葉です。
 あるとき、沢庵とその弟子は、親しくしている大名がお寺に遊びにやってくるというので、数日前から料理の準備に追われていました。
 ところが、当日になって、大名の家臣から、「急用でこられなくなった」という報告がありました。
 「何日も前から、料理の準備をしていたというのに……。腹立たしい」……そう思った弟子は沢庵に、「あの大名はたいそう身勝手なお方なのですね。せっかく料理の準備をしおましたのに」と、グチをこぼすと、沢庵はこう言ったのです。
 「世の中というものは、自分の都合で動いているわけではないぞ。ましてや、日々のお勤めも人づきあいも自分の都合で動いてくれるはずがないではないか。そう思えば、腹も立たずにすむというものじゃ」と。
 要するに、何事も、自分の思い通りに行かないのが、世の中の常というもの。相手のために一生懸命尽くしても、相手はこちらの期待に応えてくれないことだって多々あります。いや、それが当たり前だと思ったほうがいいのです。そのように考えることができれば、心を悩ませ、わずらわすこともない。腹も立たない。いつも、穏やかな心でいることができる。そのことを、沢庵は弟子に伝えようとしたのです。
 私たちも沢庵の弟子と同じように、自分の思い通りにいかないと、たいてい苛立ちます。だが、苛立てば、苛立つほど、物事は余計うまくいかなくなり、さらに苛立ちます。
 逆に、「世の中、自分の都合で動いているわけではない」といつも思っていれば、物事に対する期待感もなくなってくるため、苛立つこともないでしょう。
 このように、マイナス感情が湧いてきたら、「世の中、自分の都合で動いているわけではない」と自分に言ってみてはどうでしょうか。たいていのことは、この言葉で解決します。
 今まであったイライラした気持ちも安らいできて、楽天的な気持ち生きることができるはずです。


■□7月の法話■□



●大丈夫、大丈夫

 私たちは「行動しない理由」を見つけるのが得意です。
 たとえば、何かにチャレンジしようとするたびに、「どうせダメだろう」とか「また、失敗する」と言って、何もしようとしない自分を肯定しようとします。
 あるいは、「前もうまくいかなかった」と過去の失敗を引き合いに出して、ためらい、せっかくの機会をふいにすることもあります。
 このように理由をつけ、自分をかばってばかりいると、それがその人の考え方のクセになってしまい、そしてこのクセは、その人の性格となってしまうのです。
 だからと言って、「だから自分はダメだ」と自己卑下する必要はありません。心の中で「無理」と思うだけなら、まだいい。いけないことは、マイナスの気持ちを言葉にして言ってしまうことです。
 悲観的な言葉は、大きなマイナスのエネルギーを持っています。そのため、「無理」とか「ダメ」と口に出すと、現実がその通りになってしまう可能性が高まるのです。
 だから、「どうせダメだろう」とすぐに考えてしまうという人は、心の中でそう思ったとしても、「まあ、なんとかなるだろう」と楽観的な言葉を言うことで、本当に大丈夫な自分になっていきます。
 「また、失敗するのでは……」という思考グセのある人は「また、失敗する」と思ったとしても、「今度はなんとかなるだろう」と言っているうちに、上手くいく可能性が高まってくるのです。
 「大丈夫」という言葉があります。
 この言葉は、普通、体調を気遣ったり、相手を励ましたりする際に使われます。
 英語で言えば、「ノープロブレム」「セーフ」などが近い意味があります。私たち、「体調は大丈夫」「大丈夫。落ち着いて」などと、日常の中で使っているはずです。
 しかし、この「大丈夫」、仏教では別の意味を持っています。
 サンスクリット語では、「マハープルシャ」。マハーは「偉大な」、プルシャは「人間」。つまり、「偉大な人」という意味なのです。偉大な人、りっぱな人、しっかりした人のことを言います。それが仏教に取り入れられました。それが転じて「菩薩」を表すようになったのです。
 菩薩はすべての人を救うまで彼岸には渡らないと、誓願を立てていらっしゃいます。本当であれば彼岸に渡れるのですが、人間を救うためにこの苦しみの世界(此岸)に残ってくださっているのですから、偉大としか言いようがありません。
 皆さんに菩薩になれとは言いません。「ダメだ」「失敗する」と思い、マイナスな気持ちになったら、その時、「きっと大丈夫だ」「きっとうまくいく」と自分自身に言ってみましょう。念仏のように唱えていると、気持ちが落ち着き、その代わりに、じわっと元気がわいてくるはずです。
 大丈夫、大丈夫、です。


■□6月の法話■□



●過去の失敗に……

 最近読んだ本に次のような話がありました。
 ある動物園にいた子象の話です。
 この動物園では、小さな象が逃げないように、足を細い鎖で杭につないでいました。子象は最初のうち窮屈なので、鎖をちぎろうとしました。何度も何度もです。だが、何度も失敗したため、そのうち諦めてしまいまったのです。
 何年後、象は見違えるほど大きくなりました。本来であれば、1トンぐらいの荷物を軽々と引っ張るカがあります。力がついた象は、本気で鎖をちぎろうとすれば、簡単にちぎれるはずです。
 しかし、象はおとなしく、細い鎖につながれたままでした。なぜなら、象の中には、小さな頃に鎖を切ろうとして失敗した経験が頭に残っていたので、「自分の力では、この鎖は切れないんだ」という思い込みがあったからです。
 この子象の話は、「自分にはできないに決まっている」「どうやってもムダ」と思っていることの多くは、単なる過去の「思い込み」にすぎないということです。
 この話を読んで、これは私たちにも通じるところがあるのではないかと思ってしまいました。
 私たちはよく、過去に失敗したからといって、自分自身に勝手な限界を設けて、やりもしないうちに諦めてしまうことがあります。「失敗したら、どうしよう」という恐怖心ににとらわれ、今の自分であっても失敗すると思ってしまう。そして、次の行動に移せないのです。
 私たちは、学んだ常識や固定観念についとらわれる傾向にあります。思い込みも固定観念かもしれません。私たちは「思い込み」によって苦しんだり、悩んだりしている。そして、自縄自縛に陥ってしまうのです。つまり、私たちはさまざまな思い込みを持つことによって、人生の歩みを困難なものにしてしまっているということでしょう。
 これに対して、禅の教えは、「こだわるな」と教えています。それには、「即今、当所、自己」すなわち「いま」「ここ」「自分」をしっかり生きなさいと言うのです。
 一瞬の過去も、過去はすでにありません。この過去にこだわることは、物に執着するのと同じなのだというのです。
 過去にこだわって、やる気にブレーキをかけてしまっていていいのでしょうか。それより、失敗した過去のことを考える暇があったら、明るい未来のことを考えたほうがましでしょう。いくら私たちが悩んでも、過去を変えることはできませんから、悩むだけ無駄なんです。
 私たちはみんな凡夫。完全な人間でないのですから、失敗するのはあたりまえなんです。凡夫だから失敗して当然……と、むしろ開き直ったほうがいい。
 過去に失敗したことでも、まず簡単なところからチャレンジしてみましょう。「ダメでももと」でもいいではないでしょうか。


■□5月の法話■□



●遊戲三昧(ゆげざんまい)

 私たちだれでも、時に、どうにもやる気が出ない時や、うつうつとした気分の時があるものです。「こんなことじゃダメ」といくら自分を励ましても、気分がどうしてもノッてこない。集中しようとしても、仕事がまったく手につかない。そんな時は、どうすればいいのでしょうか。
 一つは、休息を取ることです。カゼをひいたときには無理をしてはいけないのと同じで、なにもせずに、なにも考えずに、静かにしているのが大切だからです。
 もう一つは、精神科医・随筆家であった斉藤茂太さんが次のように言っています。
 「「やる気の出ない」状態は、ただグズグズと何もせずに待っていたところで「やる気満々」に切り替わることはない。やる気を出すには手を動かしてみること、体を動かしてみることである。ともかく何かやってみること」(『〈感情コントロール〉〈気持ちの整理〉私の方法』・新講社)
 つまり、ぐずぐず考えずに体を動かしていれば、やる気はでてくるということです。
 また、脳科学や心理学の専門用語には、「作業興奮」という言葉があるそうです。これは、はなにかを始めると、初めはいやいや始めたことであっても、やっているうちにドーパミンの分泌によって作業興奮状態になり、どんどんやる気が出てくるというものです。
 やる気が出ないからといってダラダラしていては、いつまでたってもやる気など起きてきません。やる気がなくても、とにかく始めてみることが必要だということです。やる気にスイッチを入れるには、まずやってみることです。やる気などというのは、後からついてくるものなのです。
 ところで、禅の言葉に「遊戯三昧」というものがあります。『無門関』という書物に出てくる禅語です。
 「遊戯」は、ただ遊び戯れるということではありません。何ものにも心が囚われていなくて「楽しむ」ことです。「三昧」とは、正受と言い、正しく受けるということです。つまり、「遊戲三昧」とは、何ごともすべてを受け止めて、それを楽しんでいくという意味を表します。
 簡単に言えば、「どんなことでも楽しむこと、熱中してやることが大切だ」という教えです。
 この言葉には、嫌いなことであろうと、やりたくないことであろうと、すべての事柄が含まれています。それでも、楽しんでやるほうがいいということです。
 たとえば、仕事に限らず、人生には気が進まないことが多々あります。それでも、あえて取り組まなければいけない場面は訪れます。
 やりたくないことでも、今自分がやろうとしていることだけに心を集中させて、そのものに「なりきる」ようにすべきです。一心不乱になるのです。やる気がなくてもかまいません。とにかくやってみる。そうするとしばらくすれば、おのずからやる気は起こってくるはずです。
 「遊戯三昧」を忘れないよう心がけていきましょう。どんなに嫌い、辛い、やりたくない、ということでも、楽しむことができます。そして、マイナスの感情に心をとらわれずにいられるはずです。


■□4月の法話■□



●いまが花時

 私たちは、毎日毎日、いや一瞬一瞬、下り坂を下っています。日に日に年を取り、健康が衰え、気力が減退してきています。年をとったら意欲も意気も萎み、しょぼくれてしまう。つまり、私たちは、「人生はいつだって『下り坂』」を下っていると言うことができるかもしれません。
 ただ、そう考えると、心が後ろ向きになってしまいます。人間は放っておくと悲観的に物事を考える生き物ですから、意識しないとなかなか思考を後ろ向きから前向きに変えることはできないからです。
 だから、そんな考え方はやめるべきです。悲観的な気持ちになると、どんどん生きる意欲を失っていくからです。逆に私たちは、「いますぐ、このままで」人生を楽しむという発想が必要なのです。そういう生き方をすべきです。
 小説家の佐多稲子は、「人間には忘れるということが、一つの救いになる」と言っています。イヤな思い出をいつまでも心に引きずっていると、後悔や未練、怒りや苦しみといった感情を生み出します。そして、重苦しい感情に押しつぶされて、生きていくことに悲観的になっていくのです。だから、「そのようなイヤな思い出は忘れてしまうことが、人にとっては救いになる」と、佐多稲子は言っています。つまり、若いときの記憶を忘れて、「年をとることも、面白い」というぐらいに楽天的に考えてみてはどうかということではないでしょうか。
 いくら追いかけたって昔は戻ってきません。昨日より一日分年をとった今日は、一日分“新たな年寄り”として生きればいいのです。そう生きるしかないじゃないですか。
 こんな禅の言葉があります。「大地黄金(だいちおうごん)」というものです。
 意味は、自分が置かれている場所で、精いっぱいを尽くすと、そこが黄金のように光り輝いてくる、ということです。つまり、光り輝く場所は、探しにいくものではありません。
 もし、この舞台が輝いていないのなら、その場所を、あなた自身の力で黄金にすればいいのです。
 老いていくのは生きている限り、どうしようもないことです。当たり前なことなのです。そうであるなら、しっかりと老いを受容すればいいのです。老いを拒否すると、生きるのがつらくなってしまいます。それが不幸なんです。
 だから、自分が生きねばならならぬ現実であれば、その現実をそっくりそのまま受容し、肯定しましょう。そして、その中に幸せを見出してこそわたしたちは光り輝く人生になっていくのです。
 私たちはどれだけ生きるか分かりません。どんなことがあっても、「いま・ここ」を、生ききる人こそが幸せな姿なのです。
 どんな時も、「いまが花時」なのです。


■□3月の法話■□



●真面目になると憂鬱

 私たちの心は、ちょっとしたことでオロオロと動揺してしまいます。
 少しでもうまくいかないことがあったり、将来を不安に思ったりすれば、「もし悪い結果になったらどうしよう」などとすぐに心がざわめきます。
 たとえば、ある女性は、好意を持つ男性の前で失敗をしてしまいました。飲み物をこぼして、彼の洋服を汚してしまったのです。それ以来、彼女は彼に会うのが怖くなってしまいました。「彼に会った際に、喫茶店などで一緒に飲み物を飲むことになったら、どうしよう。また同じ失敗をして、彼に迷惑をかけることになるのではないか」という不安が心から消えないというのです。
 彼女はきっと、もっと気持ちを落ち着けてと思っていたでしょう。しかし、心はそうはならないで、逆の方に行ってしまったようです。「彼の洋服を汚したことで、彼を不愉快な気持ちにさせたのではないか。また同じ失敗をしたら、もっと嫌われることになるのではないか」といったようなネガティブな考えに心がとらわれているのです。
 このように物事をネガティブにものごとを考えていく人は、ちょっとしたことで心を乱す傾向が強いようです。
 それらは、他の人が気にも留めないことだったり、考えても仕方のないことばかりだったりします。ただ、それだけ感受性が豊かで、細かなことにも目が届くということ、すなわち真面目な性格なのです。しかし、その感性で生きにくくなっているのであれば考えものです。
 では、ネガティブにものごとを考えないようにするにはどうしたらいいのでしょうか。  詩人である萩原朔太郎の言葉に次のようなものがあります。
「『真面目になる』ということは、しばしば『憂鬱になる』ということの外の、何のいい意味でもありはしない」(『新しき欲情』)。
 つまり、「真面目になる」ということは、しばしば「憂鬱になる」ということと同じ意味だということです。
 うまくいかない原因は必ずしも自分にはない。にもかかわらず、責任をすべて自分で背負い込んでしまうのです。そして、その責任感の強さが、重圧となって心にのしかかってくる。真面目な人ほど憂鬱な気持ちになってしまいがちにんてしまうです。
 そういう意味では、私たちにはある程度の「適当さ」つまり「いい加減さ」が必要なのではないでしょうか。つまり、極端を避けることです。ちょうどいい具合にということです。それはまさに仏教の教えの根本である「中道」ということにあたります。
 基本的には何ごとも真面目に取り組むことは大切です。しかし、真面目さに囚われるのはよくありません。その点を仏教では言います。
 真面目に生きることは大切です。しかし、期待に応えられないこともあります。そんな時は憂鬱になるかもしれません。そうならないためには、期待に応えられなくて、仕事に失敗した時は、失敗してもしょうがない、といった「いい加減さ」をある程度持っておくことが大切なのです。
 楽しく生きるには、時には「いい加減」さも必要ということです。


■□2月の法話■□



●食べ物はだれのものに

 私たちは、時に他人から根拠のない悪口を言われたり、嫌がらせを受けたりすることがあります。そんな時、私たちは当然気分は悪くなり、腹立たしい気持ちになると思います。
「あなたは私のことをバカにしているの?」
「何であなたにそんなこと言われなきゃならないの?」
 しかし、そんなふうに相手に怒ってもどうもならないのです。
 私たちの感情は、起きた出来事よりも、私たち自身が「どう考えたか」に影響を受けます。だから、たいして気にもならないことでも、その当人が大げさに受けとめてひどく腹を立てれば、事実の大きさに関係なく、その人の心には一気にマイナスのエネルギー増えてしまうのです。
 むしろ文句や悪口を言えば言うほど、イライラや不満、怒りといった感情が大きくふくらんでいってしまうでしょう。
 さて、お釈迦さまにも悪口に関する話があります。
 ある時、お釈迦さまは、ひとりのバラモンから罵詈雑言をあびせかけられました。
 するとお釈迦さまは、罵詈雑言をあびせたバラモンに向かって、こう言ったのです。
「バラモンよ、あなたのところに客がやって来て、あなたがその客に食べ物を出すとしよう。しかし、その客が、その食べ物を受けなければ、その食べ物はだれのものになるのかな……」
「もちろん、客人が食事を受けなければ、その食事は主人のものになります」
「では、バラモンよ、私はあなたの罵詈雑言を受けないことにする。だから、その悪口はあなたのものなのだよ」
 私たちは、このお釈迦さまの態度に学ぶべきではないでしょうか。もっとも、自分に悪口を言っている相手に、お釈迦さまと同じ言葉を返す必要はありません。それでは、逆に相手を怒らせる結果になってしまうからです。
 私たちが学ぶべきことは、お釈迦さまが相手の悪口を受け取らないようにされたのだということです。相手がどんなにひどいことを言っても、言われた私たちが悪ロを受け取らなければ、悪ロを言った本人が、持ち帰るしかないのです。
 ですから、私たちはどんな悪口を言われたとしても、そんな言葉をまともに受け止めてはいけないのです。受け流してしまうことです。つまり、すぐに忘れて気持ちを切えればいいのです。
 そう言われても、分かりづらいでしょう。
 気持ちを切えるためには、悪口を言われたり、イヤな態度をとられた時には、「気にしない、気にしない」とロに出して言ってみればいいでしょう。それを唱えていると、ざわざわとした気持ちが流されていって、気持ちが落ち着いてくるはずです。そして、今、自分がやるべきことをやればいいのです。


■□1月の法話■□



●何ごとも腹八分目で

 私たちの中には、「どうすれば幸せになれるのか」と言う人がいます。
 そんな問題意識を持つ人は、恐らく、十分に幸福感を実感できないまま生きていると思います。その人自身が、どうすれば幸せになれるのか、なかなかその答えを見つけ出せないでいるからだと思います。
 ところで、インドの民話に次のような話があります。
 九十九頭の牛を所有する大金持ちがいました。彼は、あと一頭の牛を手に入れると、切りのいい百頭になると考えて、わざとオンボロの服装をして、幼馴染を訪ねて行きます。幼馴染はただ一頭の牛を所有して、細々と暮らしていました。
「私は貧乏なので、子どもたちに食わせてやることもできないぐらい困っている。幼馴染の好みで私を助けてくれないか」
 と大金持ちはそう訴えます。もちろん嘘です。
 すると、幼馴染は、
「友人のあなたがそんなに困っているとは知らなかった。本当にすまない。自分であれば、この牛がなくても、妻と力を合わせて働けばなんとやっていける。だから、この一頭の牛を布施させていただこう」
 と言って、一頭の牛を差し上げました。
 大金持ちは、これで百頭になったと大喜びします。一方、貧しい男も、友人を助けることができたと喜んでいます。生活に困っている旧友をいささかなりとも助けてあげることができたからです。
 さて、その金持ちは幸福になったでしょうか。彼は多分、すぐに百頭の牛を百五十頭に増やししたいと考えるはずです。そうすると、今の百頭の牛がマイナス五十頭になってしまうのです。
 金持ちにはなれるのですが、満足がない。「もっともっと」という欲にとらわれてしまうと、欲の奴隷となって、安らぎに満ちた幸福は遠ざかってしまうのです。それよりも、一頭を布施した貧しい男のほうが、はるかに幸福ではないでしょうか。
 お釈迦さまの遺言とされている『仏遺教経』には次の言葉があります。
「足ることを知っている人は地面に寝るような暮らしをしていても、心が安らかで幸せを感じている。足ることを知らない人は、天上にある宮殿のようなところに住んでいても満足することがない。足ることを知らない人は、どれほど裕福であっても、心は貧しい」
 つまり、私たちが幸せな生き方をしたいなら、「知足」を心がけることが大切だということです。何ごとも腹八分目ということでしょう。


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