■□12月の法話■□
●真面目過ぎるのも……
私たち日本人には生真面目なところがあります。そこで、自分が立てた目標に対して、「やらねばならない」という思いに縛られてしまうのです。会社に就職したら、成果をだそう、早く認められたいという気持ちから、ついがんばりすぎてしまいます。子供が生まれたら、「いい親になりたい」と、やはりがんばりすぎてしまいます。
確かに、真面目は、けっして悪いことではありません。いい加減な気持ちで生きるよりも、真面目に生きるほうが、高く評価されるからです。
ただし、問題があります。このような真面目な人は、「○○しなければならない」「○○するべきだ」と考えてしまう点です。なぜかといえば、真面目にことに当たったからといって、いくらがんばったとしても、期待どおけの結果がでるとはかぎらないのです。仕事で成果がでず、上司から叱られることもあるかもしれません。あるいは子育てでうまくいかないことも多いかもしれません。
そんなとき、がんばりすぎタイプの人は、「こんなに努力しているのに、どうしてなんだ」と心を揺さぶられることになります。そして、「私はいくらがんばっても成果をだせない、ダメな人間なんだ」という思いにかられて、人生を悲観的に考えてしまう。まさにネガティブな考え方になってしまうのです。
ところで、詩人である萩原朔太郎(19~20世紀)は、「『真面目になる』ということは、しばしば『憂鬱になる』ということの外の、何のいい意味でもありはしない」(『新しき欲情』)と言っています。ずっと昔に真面目に生きることが、憂鬱を引き起こすといっているのです。
まさにそうでなのです。精神病の考えでは、うつ病になる人には、まじめな性格の人が多いといいます。
たとえば、真面目な人は人から期待されたり、重要な仕事を任された時には、「がんばろう」という気持ちにすぐになってしまいます。度を越してがんばり過ぎてしまうのです。
しかし、ちょっとした失敗や挫折があると、それを非常に気にして落ち込みやすいのが、まじめな人の性格。そして、生きることに自信を失って、「すべてどうでもいいや」と投げやりな気持ちになってしまうのです。
このような真面目な人はどうすればいいでしょうか。まず言えるのは、、真面目になり過ぎないことではないでしょうか。
仏教から言えば、真面目過ぎることは「執着」です。「中道」という言葉があります。これは、「がんばりすぎず、かといって、なまけることもなく、自分のペースでほどほどにがんばっていく」といった意味です。
この中道という考え方にのっとって生きていくことが、人間にとって一番幸せなことだと、仏教は教えているのです。ある意味、「いい加減」ということです。
お釈迦さまの弟子にソーナという方がいます。必死の修行を続けても、悟りが得られませんでした。そこで、彼は仏教の修行をやめようとするのですが、その時にお釈迦さまは、「琴は絃をあまりに強くしても、あるいは弱すぎても、いい音がでないものだ」と中道を語っています。極端をやめなさい、いい加減でいいのということです。
大切なのは、「必ずこうしなければならない」と思いつめないこと。「○○しなければならない」「○○するべきだ」と考えないこと。このようにゆったりとした考え方をすることによって、気持ちに余裕が生まれ、生きることが楽しくなってくるのではないでしょうか。
真面目も度を超すと、自分を苦しめる原因になるということです。
■□11月の法話■□
●どうぞご勝手に
周囲の目を気にしなければ、もっと自由にやりたいことをやって生きられるのに。そのように思ったことはないでしょうか。
私たちは人からの評価が気になるものです。なかには気にならないという人もいるかもしれませんが……、それでも大多数の方は自分に対する「評価」が気にならないという人は多分いないはずです。ただ、それが励みになるうちはいいのですが、あまり気にしすぎると本来の自分を見失ってしまいます。
周りはこの自分をどのくらいの人間と見ているのか。仕事の能力はどの程度のものだと思っているのか。私たちの心はいつもそのことが引っかかってしまいます。
特に思うように物事が前に進めないときなどは、焦る気持ちから、私たちの心には次のような迷いが生じてきます。
「このやり方で正しいのだろうか。もしかして、間違っているのではないか」と。
ただ、このような迷いに心が囚われてしまうと、だんだん気持ちが沈んできます。そして、何かをなしとげようとする気持ちが萎えていってしいます。
そこにあるのは「他人と較べること」です。どのくらいの人間か、どの程度の能力かというときには、誰かと較べて上か下か、という「ものさし」が必ず持ち込まれています。
そして、自分が上と思えれば安心した気持ちになり、逆に下と思ってしまったら落ち込んだりするのです。
つまり、優越感を感じたり、劣等感を感じたりしてしまい、心が落ち着くことはありません。
ところで、禅に「不思善、不思悪」という言葉があります。
これは禅の理論を完成させたといわれる中国・唐代の禅僧・六祖慧能の言葉です。この意味は、簡単に言えば、ものごとの善悪を考えないで、他人の評価を気にせず、自分自身の内に評価を求めればいいということです。
そもそも、評価という「ものさし」ではかれば、世間にはもっと上の人も、もっと下の人も、数かぎりなくいます。それなのに私たちは自分を中心にした世界だけで、ああだこうだと考え、悩んでいるのです。
評価というのは、所詮、他人が勝手にする「レッテル貼り」です。
自分ですら自分のことがよくわからないはずです。ましてや、他人に「あなたはこのくらいの人間だ」とか、「あなたの能力はこの程度」などと決めつけられるいわれも、筋合いも、そもそもないのではないでしょうか。評価などはそんなものなです。
それでも他人の評価が気になるようなら、「不思善、不思悪」という言葉を思い出してください。そして、「どうぞご勝手に」と心の中で呟いてください。そうすれば、心は落ち着くはずです。
他人と自分を比較するクセを改めるには、今の自分に意識を集中することです。それを積み重ねていけば、他人との比較に心を乱されないようになり、自分らしい生き方が見えてくるでしょう。
他人の評価は、「どうぞ勝手に」で。
■□10月の法話■□
●あたりまえということ
お金を引き出すためにスーパーのATMに行ったときのことです。
「只今、メンテナンス中ですので、現在利用できません。13時以降にお願いします」との札。
「困ったなー。どうしようか……」
日頃あたりまえに利用しているものが、その日そのときに限って利用できない。そのようにがっかりしたことは皆さんもあるのではないでしょうか。
「あたりまえ」は「あたりまえ」ではないかもしれません。
大正時代を生きた詩人に北原白秋がいます。彼は、詩集『白金之独学』なかに、次のような詩を書いています。
薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
照リ極マレバ木ヨリコボルル。
光リコボルル。
美しい詩です。薔薇の木には薔薇の花が輝きながら咲きます。そして、盛りを過ぎれば、花は枝から土の上に落ちたが、それも輝いているという詩です。それは、言うなれば「あたりまえ」です。しかし、詩人の目で見れば、その「あたりまえ」が「不思議」だというのです。
不思議という語は、本来は仏教の言葉です。インドの古い言葉・サンスクリット語の「アチントヤ」を訳したもので、正しくは、「不可思議」です。
「不可思議」は、文字通りに「思議できない」の意味です。私たちの知恵ではとても思い巡らすことのできないものが、「不可思議」「不思議」ということです。
ところで、禅の言葉に「喫茶喫飯」というものがあります。「喫茶」とは、「お茶を飲む」という意味です。「喫飯」とは、「食事をする」ということです。「あたりまえ」のことだと思われるでしょう。ところが、この言葉は、お茶を飲むときはお茶を飲むことだけに、食事をするときはそのことだけに一所懸命になりなさい、ということを教えているです。
たとえば、朝、テレビを観ながら、あるいは新聞に目を通しながら食事をすことがないでしょうか。このように「~ながら」をしていたのでは、「喫茶喫飯」ではありません。
「なんておいしいお茶だろう」「ああ、ありがたい食事だなあ」とそれだけに心を向ければ、「感謝の思い」で満たされるのです。ゆったりとした朝が実現します。心がずっと豊かになります。あたりまえと思っていた毎日がもっと輝きます。
まさしく、これが「あたりまえ」の姿です。「あたりまえ」が「ありがたい」。そのあたりまえの在り様こそ禅の悟りそのものなのです。
反対に、「あたりまえ」と思わないならば、気持ちは「おもしろくない」「ムシャクシャする」「ああ、うっとうしい」……、そんな気分がなにかにつけて心を支配してしまうでしょう。そして、一日がマイナスの気分で過ごすことになるのです。
「いま」「ここ」にある「あたりまえ」のことに気づいてください。「あたりまえ」のことを、もっともっと大事にしようという気持ちが生まれるはずです。そうすれば、今日一日がプラスの気持ちで過ごせるようになります。
皆さんも自分のまわりの「あたりまえ」のことを、一度、見直してみませんか。
■□9月の法話■□
●リフレーミングする
ある男性は、友だちからよく「君はガンコだね」と言われることがあったそうです。そのために、彼はそんな自分の性格が気になり始めました。
「僕はガンコだから、みんなから嫌われてしまうんじゃないか」「人とうまくつき合っていけないんじゃないか」と、思い悩むようになってしまったのです。
しかし、その「ガンコだから嫌われる。ガンコだから人とうまくつき合っていけない」という思いは、実は彼の勝手な思い込みに過ぎないのではないでしょうか。
ところで、心理学に「リフレーミング効果」という言葉があります。この言葉にある「フレーミング」には、「物事を認識する枠組み」という意味。また、「リ」は、「組み立て直す」ということです。つまり、「リフレーミング」とは、「物事を認識する枠組みを、組み立て直してみる」ということになります。
そうすることで、「心の状態」が変わり、今まで思い悩んでいたことが解決し、気持ちが明るくなってくる。それまで不満に思っていたことに、満足することができるようになるのです。それが、「リフレーミング効果」ということです。わかりやすく言えば、リフレーミングとは、「ネガティブ思考からポジティブ思考に、考え方を変える」ということです。
ガンコだといわれ悩んでいた男性は自分の性格について思い悩むのではなく、心理学で言う「リフレーミング」を行って、自分への認識の仕方を変えてみるといいはず。
そうすると、ガンコだと言われたとしても、良い点がたくさんあることがわかってきます。たとえば、「ガンコな人ほど意志が強い」「ガンコな人は周りから何を言われようが最後までやり抜く」など。 このように物事の認識の仕方をリフレーミングしてみると、「ガンコな自分」であっても自信を持って生きていけます。不満に思っていたことに、満足することができるようになるのです。それが、「リフレーミング効果」です。
一方、禅語には「柳は緑、花は紅」というものがあります。春になると、柳は緑色の葉をつけ、花は紅色に咲いている。花は柳を羨むことも、蔑むこともないし、その逆もありません。どちらも、ただ、あるがままに命を全うしているのです。
そこから、この禅語は、この世に存在するありとあらゆるものが、そのまま真理であるということを言うのです。つまり、私たちもそれぞれの個性があり、その個性を生かし、ありのままの自分を生きていけばいいのだということです。
ガンコも個性。そんな自分を生きるのは自分しかない。そう思い直して、いま、ここで精一杯、ありのまま生きていけばいいでしょう。「他人は緑、私は紅」です。
■□8月の法話■□
●心暗きとき、遇うところ
平気な人というのは、自己肯定感の高い人です。他人に何をされても、言われても、プラスの意味づけをするので、いつも笑顔でいることができます。
反対に自己肯定感が低い人は、イヤなことがあると、自分の能力に今一つ自信が持てず、ついつい自分の人生に悲観的な感情を持ってしまい、マイナスの意味づけをしてしまうようです。
この違いは何にあるのでしょうか。
これにヒントを与えてくれるものがあります。
真言宗を開いた空海の次のような言葉です。
「心暗きとき、遇うところ悉〈ことごと〉く禍〈わざわい〉なり。眼明らかなれば、途〈みち〉に触れて皆宝なり」(『性霊集』)
現代語訳をすれば、「暗い気持ちでいると見るもの全てが災いに見えるが、明るい気持ちでいると見るものすべてが自分をささえるすばらしいものであることに気付く」ということです。
つまり空海は、気持ちの持ち方次第で、物事の受け止め方が異なってくる。だからいつも心を明るく澄んだ状態に保っておくのがいい。そうすれば何事にも、前向きな気持ちで対処できると言っているのです。
私たちは生きているといろいろなことに出遭います。嬉しいこと、楽しいことだけではありません。
悲しいこと、苦しいこと、悩ましいことも起こってきます。マイナスの出来事です。
もし、「なぜ私にばかりイヤなことが起こるのか」と思っている人がいるなら、それは心にマイナス要素が蓄積されているのです。
なぜなら、私たちは、自分の身に起こることはすべて、自分自身が引き寄せてきてしまうからです。
プラスの要素が多いとき、その人の周りにはプラスの出来事が引き寄せられます。反対に、マイナスのエネルギーが多いときは、マイナスの出来事が引き寄せられてきます。
だから、私たちの心がマイナスの要素が多い状態でいると、幸せな日々を送ることはほとんどできなくなってしまいます。例えば、「もうダメだ」というような暗い気持ちが強くなれば、マイナスの気持ちは、ますますマイナスの出来事を呼び寄せるために、私たちの悩みや苦しみは徐々に大きくなっていってしまうということです。
だからこそ、私たちが前向きな気持ちで生きるためには、気持ちをプラスの状態にするよう心がけ、心を強くしていくしかないのです。
それには、空海が言うように「心を明るく澄んだ状態に保っておく」ことです。どんなことが起きようと楽観的に考え、明るい気持ちを心がけることです。考えても仕方のないことで悩むのは終わり。そうすれば、私たちは実り豊かな人生を送ることができるでしょう。
「泣いても一生、笑っても一生」です。あなたなら、どちらの道を歩みますか。
■□7月の法話■□
●プラシーボ効果の応用
妙に心がモヤモヤしたり、理由はわからないけれど、気分が上がらないという時がないでしょうか。
たとえば、
「いつも自分のことは置いておいて、皆のためにいろいろするが、なぜか誰もほめてくれない」
「やらなければいけないのに、まったくやる気が出ない……」
「人間関係に振りまわされ、毎日イライラ、モヤモヤ……」
「将来のことを考えると、このままでいいのかと不安が尽きない……」
と、このように心の中をモヤモヤさせながら、生活している人が多いのではないでしょうか。誰でも、そんなネガティブな感情を抱くことがあるものです。
こうしたネガティブな感情は、放置しておくと、また別のネガティブな感情を呼びこみます。そしてそおのようなネガティブな感情にとらわれ続けていると、その影響で自分自身がどんどん消耗していきます。気づいた時には心身ともに疲れ果てて、さらには生きる意欲も失ってしまうことにもなりかねないのです
こういった時には、発想を転換することです。
「プラシーボ効果」という言葉があります。「偽薬効果」と言われるものです。お医者さんが患者に、「この薬は、あなたの病気にとても効果がある」と言って、ある薬を飲ませます。実際には、その薬には、そのような効果はありません。しかし、患者は、「効果がある」というお医者さんの言葉を信じ込み、その結果、患者の病状が回復したということを言います。
つまり、「効果のない薬」であっても、患者自身が「効果がある」と思い込むことで、実際に病状が回復すること、これが「プラシーボ効果」「偽薬効果」と呼ばれるものなのです。
このことから、私たちにとって、「思い込み」が強い影響力を発揮することがあると言えないでしょうか。たとえば、ネガティブな感情に陥っている人にとって参考になる話だと思います。
禅に「随処作主 立処皆真(随処に主と作れば 立処皆真なり)」(『臨済録』)という言葉があります。中国臨済宗の祖である臨済義玄禅師の言葉です。
意味は、どんな場所にあっても、何事に対しても、主となって懸命に取り組めば、そこには自分の真実の姿がある、ということです。主となるとは、そのことに自分のすべてを投じていくということです。
だからこそ、気持ちがもやもやしていてもいい。とにかく、何も考えずに、心の中で「すべてを楽しもう」と自分に言い聞かせましょう。まさに「思い込み」です。その上で、何かをしてみることです。
モヤモヤして時を過ごすのも、楽しく生きるのも私。自分を生きるのは私しかいない。そうすれば、おのずと「思い込み」の効果で、必ずや楽しくなってくるはずです。
■□6月の法話■□
●ネガティブな雑念にとらわれたら
人の心は、知らず知らずのうちに、心配事や不安感、いら立ち、怒り、悩み、といった様々な雑念にとらわれてしまいます。
たとえば、目標を立てて頑張っていている時です。思うようにいくと場合もあるかもしれませんが、思うようにいかない場合も出てくるものです。
そんな時は、私たちは落ち込んでしまいます。「なんで自分はダメなんだろう」と思い、「落ち込んではいけない」「いつも前向きな気持ちでいないと」などとプレッシャーを感じる人もいるでしょう。そして、自分を否定してしまったり、さらには自己嫌悪に陥ったりするのです。
このようなネガティブな雑念は私たちの心を惑わせ、イキイキと前向きに生きようとする気持ちを低下させることにつながります。そして、今よく目にする「自己肯定感」を低くさせてしまうのです。
ここで言う自己肯定感とは、今の自分をありのまま認めること。いい悪いことすべてを含めて、このままの自分でOKということです。あるいは、今のありのままの自分に自信を持つことと言えるかもしれません。
私たちがネガティブな雑念にとらわれたら、まずそんなネガティブに考える自分を責めないことが大切です。そして身体を動かすことがお勧めです。散歩でも、軽い運動でもいいでしょう。
ところで、仏教の修行の一つに、「掃除」があります。
特に、禅寺の修行僧は坐禅と食事をしている他の多くの時間を掃除に費やすとも言われています。それは、掃除は単に塵や埃を払ったり、その場を磨いたりするものではなく、自分の心についた塵や埃を払い、心を磨くものだと考えるからです。掃除をする時は一所懸命に身体を動かし、余計なことを考えないことが大切なので、坐禅以上に大切な修行とされています。
また、掃除をすると「気持ちが落ち着く」ということが、心理学の研究で言われています。掃除をしている時は脳の中で、気持ちを落ち着かせ、また、気持ちを前向きにするセロトニンという物質が盛んに分泌されるとのこと。適度な運動をすると、脳の中でセロトニンという物質の分泌が盛んになります。セロトニンという物質の分泌が盛んになると、ストレスが解消され、気持ちが前向きになり、また、自己肯定感も高まる、と言われているのです。
それに掃除をし終わった後はある種の達成感をおぼえることができます。きれいになった部屋を眺めていると気持ちが満たされるからです。
その達成感・満足感が、自己肯定感を高めることにもつながるのです。掃除をやり遂げたという達成感が、「こんなふうに最後までちゃんとやり遂げることができる」という自信をその人に与えることになるからです。
ネガティブな雑念は私たちの心を惑わせ、気持ちが落ち込んで自己肯定感が低下させてしまいます。そんな時には、気分転換です。その意味でも掃除は簡単にできること。だから、それを習慣にすれば私たちの自己肯定感が高まり、心は元気になってくるはずです。
私も庭の掃除、草抜きをすることにします。
■□5月の法話■□
●「こうあるべきだ」、はたしてそうなの?
私たちは長く生きていると、いろいろな経験を重ねていきます。成功した経験、失敗した経験などです。そんな中から、私たちは常識を身につけていきます。
特に成功体験に裏づけられたときには「こうするべきだ」「こうあるべきだ」という考えは強固な常識となってきます。そして、その常識によってものごとを見てしまうようです。
そうすると、自分の考えに合わない人に遭うと、「苦手な人」「相性が合わない人」として、反感や怒りを感じてしまうことが多くなってしまいます。また自分が経験したことのない物事に出遭うと、「くだらない」「私には関係ない」などと一刀両断にすることもあるでしょう。あるいはなんでもかんでも無理矢理、私たちが持っている常識の枠のなかに収めようと無駄な努力をするかもしれません。
しかし、それは自分を守っていることのようですが、じつは自分で自分を苦しめることになってしまうのです。
ところで、禅の言葉に「孤雲、本無心(孤雲本は無心)」というものがあります。
空を見上げると、雲がひとつふわーっと浮かんでいます。「本」とは「もともと」「本来」といった意味です。
つまり空に浮かんでいる雲は、何を求めるでもなく、何に執着するわけでもなく、もともと無心で空をただよっているということです。
このことは私たちに人としての生き方を教えてくれます。私たちもあの雲と同じように、「何も求めず」「何にも執着せず」、無心となって生きていくことがいい、ということです。これこそ禅の求める自由な生き方です。
つまり、私たちはいろいろな経験によって培った、「こうあるべきだ」「こうするべきだ」という常識に縛られています。それがどんなに正しいことであっても、それにとらわれてしまうと、私たち自身を苦しめることになるということなのです。
「こうあるべきだ」「こうするべきだ」という価値観を相手に押しつけようとすると、結局は相手に自分自身が振り回されることになります。他人は自分の思うようには思っても、動いてもくれないからです。
そのために自分自身がいつもイライラした感情に苦しめられることになるのです。
「こうあるべきだ」「こうするべきだ」という私たち自身に対するこだわり。そういうものから離れて自身を解き放ち、自由な心を常に持つことが、人間というのは生きやすくなるのです。
だから、人と上手くつき合っていくには、「こうあるべきだ」「こうするべきだ」という、自分の一方的な価値観を相手に押しつけない、ということが大切になってくるのです。
世の中のすべてが私たちの思い通りになるわけではない。このことは誰しも分かっていることでしょう。それでも、私たちが忘れてしまいます。だから何度も何度も自身に言って、再認識すべきことかもしれません。それが人生を楽しむヒントの一つです。
■□4月の法話■□
●「リセットする習慣」を
仏教には「河を渡る」という譬えが多くあります。その中でも、「彼岸」という言葉は仏教では重要なものです。
私たちの前には大きな河があり、こちらの岸が「此岸」で迷いと煩悩の世界であり、私たちはこの此岸に住んでいます。この此岸を、仏教では「娑婆〈しゃば〉」とも呼び、私たちはこの此岸から、河を向こう岸に渡らねばならないと言います。渡った向こう岸が彼岸であって、そこは悟りの世界であり、此岸」は、いさかいやもめごとが絶えませんが、彼岸では、すべての「苦」から解放され、心穏やかに暮らせるからです。つまり彼岸は、「安らぎ」の世界と言ってもいいでしょう。
「この河を渡って彼岸に到達せよ」というのが仏教の大切な教えなのです。だから仏教は、その河の渡り方を私たちに教えてくれているのです。
しかし、私たち凡人にはそう簡単にこの河は渡れない。いや、完全に渡りきることなど、は不可能だといってもいいでしょう。それはちょうど、星を理想とするようなものです。私たちは星に向かって進むのですが、絶対に星に到達することはないからです。
大事なことは、ほんの少し前に進むこと。昨日よりは今日、一歩でもいい半歩でもいいから前に進んでいればいいのです。それが仏の道であり、私たちが幸せに生きることなのです。
私たちは、ものごとに取り組んでいるときに、いくら考えても策が見出せず行き詰まってしまうことがあります。ひとつのことばかり考えすぎて、頭のなかが凝り固まってしまう状態です。
人は行き詰まると、不思議と内へ内へと籠もりがちになるものです。そして、うんうんと悩んでしまうのです。
このような遣り場のない感情をかかえ、モヤモヤした気持ちでいる人は少なくないでしょう。誰でも、そんなネガティブな感情を抱くことがあるものです。
こうしたネガティブな感情は放置しておくと、また別のネガティブな感情を呼びこみます。「やる気が出ない」→「あせる」→「できない自分がイヤになる」……。まさに「ネガティブ・スパイラル」です。
ところで、禅の言葉に「生而今〈せいにこん〉」というものがあります。この言葉は「過去のことは過ぎ去ったこと。だからすべて忘れ、今この時に集中して生きていくのがいい」という意味です。それはまさに、一瞬一瞬、新しい心にリセットすることなのです。
たとえ行き詰まって、ネガティブな思い抱いても、昨日のことは昨日のことです。それを引きずらないよう心がけるのがいい。つまり、一度、頭のなかを「リセット」することが大切ということです。
ちょっと散歩に出かけて自然にふれてみたり、夕日を眺めたりするのもいいでしょう。コヒーを飲むのもいいでしょう。皆さんも「リセットする習慣」を日々の生活にとりいれたら、毎日がもっと心軽やかに、自然体で生きられるようになるはずです。
そして、そのことによって一歩一歩前に進んでいくことが私たちが幸せに生きることに繋がっていくのです。
■□3月の法話■□
●成仏するとは
「成仏する」と言うと、普通には人が亡くなったときなどによく使われる言葉です。
しかし、仏教では、生きている人が、文字通り「仏」になることを言います。つまり、悟りを開いて、迷いや苦しみから解放されれば、生きながらにして「成仏」できるということです。
では、この「悟りを開く」ということは、どんなことなのでしょうか。 お釈迦さまは、悟りを開いて最初に仏になられたと言われていますので、それを参考にしてみましょう。
お釈迦さまは二十九歳で出家をしましたが、彼が最初に行った修行は「苦行」でした。徹底的に肉体を痛めつけるものです。ところが、死んでしまうほどの苦行によっても、彼は悟れませんでした。
そこで、お釈迦さまに閃いたのが「中道」というものです。お釈迦さまは出家する以前には快楽に溺れた生活をしていた。そして、今はもう一つの極端である苦行を修している。それでは駄目ではないか。そんな極端を排して、中道を歩もうではないかと考えます。
「琴の弦がゆるんでいたら、よい音色は奏でられない。欲望にまみれた生活はそれと同じだ。しかし、琴の弦は張りすぎると切れてしまう。体を痛めつけるような苦行や危険な修行はきつく張って切れる寸前の弦のようなものだ。どちらにも本当の安らぎはない。弦がちょうどいい張り具合になる生活の中にこそ、安らぎがある。それが、悟りである」と。そこで苦行をやめるのです。
一緒に苦行を行っていた五人の仲間に反対されましたが、お釈迦さまはただ一人、中道を歩み始めます。その結果、お釈迦さまは悟りを開いて仏になることができたのです。
つまり、「成仏」を目指すなら、中道すなわち「ほどよい塩梅」が大事だということです。
ところが、私たちは、いいことであれば極端も許されると考えてしまい、極端を目指して努力してしまうのです。だが、そんなことをすれば、ただ疲れるだけです。
たとえば、より良い生活を求めて、一生懸命に働きます。働けば働くほど、より良い生活に近づけます。しかし働きすぎれば、過労のために心身の健康を害します。もちろん怠けて遊んでばかりいれば、会社をクビになってしまうでしょう。
ですから「怠けず」、しかしながら「働きすぎず」、ちょうどいいバランスでがんばっていくのがいい。そして、バランスよく働いていくためには、「ほどよい塩梅」が大切なことなのです。
自分の「ほどよい塩梅」は、自分にしかわかりません。自分自身で生活のルールを決め、やるべきことをやり続けることです。「ほどよい塩梅」の生き方が、成仏に近づく道ということです。
■□2月の法話■□
●生活にメリハリを
私たちは疲れていると、イライラや落ち込みというマイナス感情が増えやすくなります。体力も落ちてきて、それに連動するかのように体調が悪くなってしまい、精神的にも肉体的にも疲れがたまっていくだけのような感に襲われることがあります。ついには、「もう、どうでもいいや」とやることなすことすべてにおいて面倒くさく感じてしまい、生きる希望をなくしてしまうようです。
ところで、精神医療の意見として、「うつ病」になりやすい人は「責任感が強く、まじめすぎる」タイプだと言われています。
責任感が強いことやまじめに生きることは、決して悪いことではありません。いいかげんな気持ちで生きるよりも、まじめに生きるほうが、いいに決まっています。
ただ、まじめすぎるということや責任感が強すぎるということには問題があります。なぜなら、こういう人は「やりすぎ」てしまう傾向があるからです。
責任感の強い人は朝早くから夜遅くまで、ひたすら働こうとします。働く時間が長ければ長いほど、いい仕事ができると錯覚しているようです。
しかし、いつも張りつめた気持ちでいれば、そのうちに神経がまいってしまいます。張りつめていた糸がぷつんと切れてしまう状態です。そして、落ち込んでしまい、心がマイナスに傾いていってしまうのです。
落ち込むことがあった時、苦しい状況に追い込まれた時、そのような状況から抜け出るにはどうしたらいいでしょうか。
それには、「やりすぎ」ということを止めればいいのです。やりすぎは仏教から言えば、執着です。要は、こだわりなのです。
その止める方法としては、生活にメリハリをつけるということです。外でどんなことがあろうと、一歩自宅の玄関に入った、外のことは忘れてゆっくり休む、というメリハリが大事なのです。
家に帰ったら、リラックスする音楽を聞いたり、好きな本を読んだり映画を観たりして、外のことを忘れる工夫をする、ということでいいでしょう。つまり「気持ちの切り替え」を行えばいいのです。
禅の言葉に「喫茶喫飯」というものがあります。お茶を飲むときはお茶を飲むことだけに一生懸命になり、食事をするときは食事をすることだけに一生懸命になりなさい、という意味の禅語です。つまり、目の前のやるべきことに専念することが、すなわち心を切り替えるために大切なことなのです。
ただし、ほどほどを心がけてください。その目安は、私たちが何かをするとき、「気持ちがいい」と感じられるところが、自分にとっての「ほどほど」です。「気持ちがいい」を超えて、「つらい」「苦しい」「疲れる」という状態になった時は、やりすぎているということです。
私たちは目の前のやるべきことに専念することです。それによって、気持ちを切り替え、メリハリのある毎日を生きていくことができるのです。
■□11月の法話■□
●「もう」から「まだ」へ
私たちは五十歳を過ぎるころになると、「もう」が口癖になってしまっていることに気づくことがあります。歳を重ねるにつれて、話の中や考え方の中に「もう」という言葉が増える傾向があるということです。
「この年齢では、もう無理」「もう新しいことにチャレンジしたくない」といった具合です。
しかし、「もう」という口癖は、自分の可能性を狭めてしまうようです。
こんな話を聞かれたことはないでしょうか。コップに半分の水が入っているときに、どういう感想を持つかで、その人が悲観的な考えの人か楽観的な考えの人かどうかがわかる、という話です。
コップに水が半分入っている状態を見た時、「もう水が半分しかない」と考える人は、日頃から物事を悲観的に考える傾向が強く、「まだ水が半分もあるな」と考える人は、楽観的な人が多いということです。
つまり、悲観的に考える人というのは、もし喉が渇いても、もう水が半分しかないと思うので、もったいなくて水が飲めません。そして喉は渇くし、水はもう少ししかなくて不安だというマイナスの気持ちで心が一杯になり、そのあともイヤなことばかり起こりったりします。
逆に、楽観的に考える人というのは、まだ水が半分もあるという考え方なので、喉が渇いたときは、その水を飲みます。そして、「おいしいなあ」と思うことで、心にプラスの気持ちがたまり、やがてよいことが訪れます。
つまり、もう水が半分しかないと考える人は、その先にイヤなことが起き、まだ水があると考える人は、その逆によいことを呼び寄せてくるのです。 楽観的な考え方ができる人というのは、気持ちが明るいので、心の中にはいつも意欲的です。楽しく生きていこうという意欲に満ち満ちているのです。挫折や失敗も前向きに考えることができるので、どんなことが生じても打たれ強くなっていけるのです。
だから、悩みから解放されたいなら、楽観的な考え方を心がけたほうがいいでしょう。
「一笑すれば千山青し」という禅の言葉があります。これは、どんなに困難な状況であっても、笑い飛ばしてしまうことで、おのずと道は開ける、という意味です。心配事などがたくさんあっても、笑い飛ばしてしまえば、楽観的になれるということです。
ですから、どんなことが起こっても笑うことです。明るい気持ちを心がけることが大切なのです。それにはまず、日ごろから、「もう」という言葉をやめて、「まだ」と言い直すことを心がけるべきです。こんな些細なことが、私たちの人生を幸せにしてくれるのです。
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