■□尾形乾山(おがたけんざん)について■□
■はじめに
江戸時代は日本のやきもの史の上では最も重要な転換期となった時代である。全国各地に多くの窯がおこり、種々さまざまのやきもの(土もの、磁器、釉のかからない硬い焼き締め、楽焼のような軟陶)を大量に作るようになったからである。現在でも続く京都、瀬戸、美濃、九谷、信楽、丹波、備前、萩、有田、唐津、薩摩などの窯は、この時代から始まったものと言えるだろう。このように、江戸時代にはあらゆる技法が出揃い、それぞれの窯が特色を強調しながら独自の個性を持つ焼き物を生み出していった。
各窯場の個性化の進展は、作品の識別を困難にし、窯印や個人銘の使用を促進した。それぞれの窯はその特色を強く打ち出し、個性的なやきものが生まれたが、そのために逆に、まぎらわしい作品があちこちで作られることも多くなってきた。そこで、違いをわかってもらうために、それぞれの窯はマークや押印をするようになった。
京都の窯場において、この窯印使用の傾向が特に顕著に見られた。京都の東山界隈には、古清水とよばれる陶器を焼いた小窯が点在していた。粟田口焼、八坂焼、静閑寺焼などがそれである。窯場の名はちがっても、作るものは古清水と総称される同じような作風のものなので、マークをつけることによって、その所属を明らかにしようとしたと思われる。
この窯印の風潮は、優れた陶工の個人名を作品に表示する契機となった。明暦(1655〜58)のころ、御室焼の野々村仁清がその先駆者かもしれない。彼は仁清という名の入った大小三種の印を、その作品の高台などに押している。その点は粟田口や清閑寺などの窯印と同じといえる。
仁清の門下から、個人名を堂々と大書する革新的な作家が現れた。尾形乾山その人である。そのことからでも推察されるように、乾山という人は、京都でもはなはだ特異な、単なる陶工の域を超えて、芸術家の称がふさわしい作家といっていいかもしれない。
■乾山の家系と芸術的素地
尾形乾山(本来は深省と言うが、表記は乾山とする)は、寛文三年(1663)に、京の大きな呉服商、雁金屋の当主である尾形宗謙の三男として生を受けた。幼名は権平といい、すぐ上の兄・市之丞は長じて光琳と号し、琳派として知られる装飾画派の大成者となった人である。
光琳と乾山という偉大な芸術家を輩出した尾形家には、深い芸術的伝統があった。この雁金屋の初代、尾形道柏は、もと江州浅井藩の士で、雁金屋をおこしてからその業が隆々と栄えたという。それは浅井氏の娘(淀君、徳川秀忠夫人、京極高次夫人)の引き立てがあったからといわれている。
本阿弥光悦との血縁関係が、尾形家に芸術家気質をもたらした。道柏が迎えた妻は、かの高名な本阿弥光悦の姉法秀だったのである。この縁組は尾形家に芸術的雰囲気をもたらしたことだろうし、その子や孫に本阿弥家の芸術家気質を伝えることになったはずである。事実、道柏の子の宗柏は、学問、書芸にすぐれ、能楽、茶道にも造詣が深く、叔父光悦が鷹ヶが峰にいとなんだ芸術工房に参加している。宗柏の子、すなわち乾山の父の宗謙も、光悦の弟子、小島宗真に書を学んだのをはじめ、学芸の多方面にひろい教養を持った文化人だったのである。
■京呉服と乾山の芸術形成
雁金屋の家業である呉服業が、乾山の将来の陶芸に決定的な影響を与えた。大奥の御用達である雁金屋のあつかう呉服が、ときの最高級品だったことはいうまでもない。乾山はものごころついて以来、そのきらびやかな衣裳の山にかこまれて育ったのである。後年の陶芸の意匠にそれがどれほど反映したか、計り知れぬものがあるといえるだろう。
江戸前期の大火が呉服のデザインを革新し、乾山の美意識形成に大きな影響を与えた。当時の衣裳は、絵画的な大きな図柄を描き染めにしたものが主流をしめていた。江戸のはじめごろの呉服は、染めを主にしてこれに箔押しや刺繍しぼりなどの技法で細かな模様をあらわすのが普通だった。ところが明暦3年(1657)、寛文元年(1661)と短いあいだに江戸と京都をおそった大火が、この風潮を一変させてしまったのである。
大火後の大量受注が、描き染め中心の新しい呉服様式を生み出した。火事で衣服を焼かれた富裕な階層から、大量の呉服の注文が一時に殺到したからである。それまでの手間ひまをかけた製法では、とても注文に追いつけない状況になった。いきおい比較的簡単にできる描き染めだけの、それも細密なパターンではなく、大柄な図文を描き流したものが主役を演ずることになり、それが当たって、ときの流行になるまでに至ったのである。
友禅染の完成が、大胆な意匠の小袖流行をさらに加速させた。糊を使った染め抜きの技法、いわゆる友禅染の完成は、このような染小袖の流行にいっそうの拍車をかけたといえるだろう。肩から裾へかけて大きな図柄が奔放に描かれた、世に寛文小袖として名高い衣裳が、時代の寵児となっていったのである。京呉服の大店である雁金屋には、宗謙や光琳の差配のもとに、おかかえのデザイナーたちが腕をきそってつくった小袖が、常に山のように積まれていたことだろう。乾山はその宝の山で育ったのである。まことに幸せな生いたちといえる。
乾山は華やかな環境にありながら、内省的で好学な性格を示した。しかし乾山は、遊び好きで派手な性格の光琳とは違い、内にこもって書を読み思索する、内省的な好学の徒だったようである。鷹が峰の光悦村に遊んで光悦の芸術をしのび、その孫である空中斎光甫から陶芸の手ほどきを受け、また、当時のすぐれた茶匠であり、山崎闇斎門下の学者でもあった藤村庸軒から、多くの薫陶を受けたともいわれている。
■御室から鳴滝へ
父宗謙の死が、乾山の隠逸生活への転機となった。乾山が25歳になった貞享4年(1687)、よき父であり学芸の指導者でもあった宗謙が他界する。乾山には資産のほかに、家宝の月江正印禅師の書と、和漢の書籍一式、そして鷹が峰の屋敷が遺産として与えられた。この内容も乾山の性向をよく象徴しているといえる。そして、権平から深省と改名する。
乾山は世俗を離れ、御室に隠逸の住まいを構えた。そこで乾山がしたことは、町をはなれて清閑の地に隠逸することだったのである。嵯峨にも近い御室の双ケ岡の山裾をえらんで、その隠宅、習静堂を構えたのは、父の死から2年をへた元禄2年(1689)のことである。
司馬温公の「独楽園記」に見られるように、隠逸生活が乾山の理想であった。乾山陶のなかに、いくつか司馬温公の「独楽園記」をテーマにした作品があるように、彼にとってこういう隠逸で悠々自適の生活が理想だったようである。
乾山の隠逸生活において、禅の修行が重要な意味を持った。乾山が隠逸の生活を始めるにあたり、彼の性格も重要かもしれないが、もう一つ大切なことがある。それは、禅の修行にいそしんでいたことである。そのころ、隠元禅師の渡来を機として、黄檗禅が清新な宗風を振興させていた。その高弟で嵯峨の直指庵に隠栖していた独照性円禅師について、乾山は熱心に参禅したのである。独照はよほど気に入ったとみえ、乾山に「霊海」という道号を与えている。そして習静堂を訪れて、乾山との交わりを示すいくつかの詩文を残している。
輕棄世榮永可持
雙岡山下寄生涯
歴然萬象森羅影
習靜堂前月照時
*
九月二日、招に応じて、緒方深省隠士宅に過ぐる。偈を以て、之れを示す
軽く世栄を棄て 永く持つべし
雙岡の山下に生涯を寄す
歴然たり 萬象森羅の影
習静堂の前 月の照らすとき
大意は次のとおり。九月二日招きに応じて緒方深省隠士宅に過ごし、偈を以って之れを示す。深省(乾山)よ、あなたは気楽に世の栄耀を棄てたが、それを堅く守って生きていくべきだ。双ヶ丘のふもとに生涯を托し、時に習静堂を月光りが照らすときには、あらゆる迷いが明らかとなるであろう、と。禅という出世間の教えを求めていた乾山を独照が励ましている漢詩と言えるであろう。このことは、まさに乾山が黄檗禅に心酔していた証左となるであろう。
御室移住のもう一つの目的は、野々村仁清からの陶芸技術習得にあった。しかし、そればかりが彼のねらいではなかった。実は、かねて手がけたいと思っていた陶器製作に、この地は大きな意味を持っていたのである。この御室の仁和寺の門前に、京焼の大成者として重きをなしていた野々村仁清の工房があったからである。
光悦や空中斎の芸術に親しんでいた乾山にとって、仁清の技術は高く評価すべきものであった。光悦や空中斎(光甫)の芸術に親しんでいた権平にとって、手工の妙ときらびやかさをたてまえとする仁清の仕事は、かならずしも全面的に首肯できるものではなかったかもしれないが、その技術と知識については高く評価していたにちがいないと思われる。そこで、その教えをうけるべく、近くに移り住んだものと考えられるのである。
元禄12年(1699)、乾山は仁清から技術を伝授され、鳴滝に窯を開いた。それから10年たった元禄12年(1699)には、仁清から「陶法伝書」をさずけられ、いよいよ乾山窯の設立にかかっているので、御室移住の早々から仁清の門をたたき、熱心に修業を積んだに違いないといえるだろう。
二条綱平公の援助により、鳴滝に初めての窯を開設した。かねてから尾形家二兄弟をひいきにしてくれていた二条綱平公から、その鳴滝にある山荘をゆずりうけた権平は、同年九月ここに初めての窯を開いて、念願の陶芸生活にはいる。場所が王城の西北、すなわち乾の方角にあたるので、この窯を乾山窯と名づけ、自らの号としても用いるようになった。その理由は、乾の方向は、陰陽道では東北の鬼門に対して、神門と呼んで尊ばれ、福神を祀る方角であったからであろう。
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乾山窯での制作は分業体制で行われ、乾山は意匠と装飾に専念した。乾山窯での製陶の仕事は、乾山こと権平のほか、仁清の息子の清右衛門と、押小路寺焼の職人の孫兵衛とが助手をつとめた。乾山窯にはごく普通の形のものが多く、乾山の才腕が躍如としているような形は、きわめて少ないのである。ということは、中年からこの道にはいった乾山は、成形、施釉、焼窯といった習練を要する作業はほとんど助手にまかせていたと思う。自らは絵付を中心とする装飾意匠や新しいやきものを創作することに専念したからである。そして忘れてならないのは、鳴滝の乾山窯には、すばらしい仕事をしたもう一人の人物がいたことである。彼の兄の光琳がその人である。いわゆる乾山焼が今日にいたるまで世の好評を博しているのは、その制作に光琳が参画したからだといっても過言ではないかもしれない。
乾山は新機軸を出すため、画家として評価の高まっていた兄光琳に協力を求めた。文人として窯を開き、作品を世に送り出そうとしていた乾山は、その性格からいっても、ありきたりの京焼とはちがった新機軸を出そうと思ったにちがいない。彼自身、もちろん芸術の道になみなみならぬ意欲と自信を持ってはいたが、何にしても初めての仕事であり、一抹の不安があったろうことも想像される。そこで画家としての評価も高まっていた兄光琳に、直接間接の応援を求めたのである。
光琳は弟の願いに応じ、絵付けと意匠の両面で協力した。光琳もこの一本気で風変わりな弟の願いに、こころよく応じたと思う。多くの軽妙な絵をその陶器の肌に染めている。また雁金屋の染意匠のひな形づくりにもたずさわっていた光琳は、そのしゃれた図案を乾山窯の陶器に応用することについて、いろいろと乾山に助言を与えたと思われるのである。光琳がその子寿市郎に伝えた『小西家文書』(京都国立博物館蔵)の図案を見ればそのことを想像させてくれるはずである。
つまり乾山焼は、乾山と光琳という二人の美意識の融合によって誕生した。乾山焼は、プロデューサーとしての乾山、総合デザイナーとしての光琳という、二人の美意識によって誕生したといってもいいかもしれない。
■二条丁子屋町、そして江戸へ
乾山の鳴滝での制作活動は順調なすべり出しをみせたが、鳴滝乾山窯はそれからあしかけ13年をへた正徳2年(1712)で終焉し、乾山は居を二条丁子屋に移す。やきもの商売は順調にいっていたが、鳴滝が町から遠く、いろいろ不便だからということで移転することになったと言われている。高級器専門窯では、すでに立ち行かない時代となっていたので、多くの需要層を対象にした、量産を前提とする方向に舵を切ったと考えられる。特筆すべきは、兄・光琳と乾山との合作の角皿などは、鳴滝窯の終わりころから、この二条丁子屋町時代の前半に盛んに世に送り出された。
二条時代の乾山は、清水あたりの窯を借りて色目も柄もはなやかな食器類を多くつくることによってやきもの商売を行ったようである。この時代において乾山がこだわったのは懐石具の絵付であった。猪口や皿・向付などに、白化粧を施し、銹絵や染付、あるいは色絵で、琳派風の図様を描いた。きらびやかな色絵ものは、だいたいにおいて、この時期の約20年間につくられたものといえる。華麗な意匠と色目の豊かさが受けて、結構この商売は繁盛したらしい。
このような量産体制に舵を切った乾山窯は、経営的には成功をおさめた。正徳三年(一七一三)刊の『和漢三才図会』では山城国土産に乾山焼が採り上げられ、同五年(一七一五)に大坂で初演された近松門左衛門の『生玉心中』にも乾山焼の名が現れるなど、世間での評判が高まった様子が窺える。
今私たちが見る乾山焼の大部分の作品は、鳴滝と二条の30余年間につくられたものである。二条に移って20年をへた享保16年(1731)に乾山は乾山焼の窯を養子の猪八に譲り、江戸へ下向する。いらい京には戻らなかった。何が老年の彼を江戸に追いやったのか、まったくの謎である。江戸におもむいてからの乾山にさかんな作陶活動は見られないが、絵画はこの時代に作成されたようである。
乾山は寛保3年(1743)、江戸で81歳の生涯を閉じた。そして寛保3年(1743)の夏、江戸で81歳の生涯を閉じる。
放逸無慙 八十一年 一口呑却沙界大千
うきこともうれしき折も過ぬれば
ただあけくれの夢計なる
と辞世に托し、芸術三昧の生涯を放逸無慙と言い放って、ついにこの世を去ったのである。生誕のときとは打って変わって、身寄りのないさびしい他界であった。
乾山の後継者たちは、初代の才能に及ばなかった。乾山の名跡は養子の猪八がついで、聖護院で乾山焼の業をつづけた。その後も自称・他称乾山が出るが、初代乾山の才能には及ばないようである。
■おわりに
尾形乾山の生涯とその芸術は、まさに江戸時代という時代において、極めて特異で、しかも深い精神性に裏打ちされた存在であった。豪商の家に生まれながらも世俗の富貴を退け、学芸に親しみ、やがて陶芸という新たな表現手段を選び取った乾山の歩みは、単なる職人や作家の域を超え、一人の思想家、文化人としての確かな足跡を現代に残している。
兄・光琳との協働によって生み出された乾山焼は、琳派の装飾性と乾山自身の静謐な美意識とが見事に融合し、まったく新しいやきものの世界を切り開いた。その作品は、用と美を自由に行き来する、極めて稀有な存在である。
乾山が生涯をかけて追求したものは、単なる技巧や様式の革新ではなく、ものを通していかに生きるか、いかに美を形にするかという根源的な問いであったように思われる。その答えは、今も静かに、しかし確かな輝きをもって、乾山の陶に宿っている。
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